根来戦記の世界

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日本中世の構造と戦国大名たち~その⑪ 北条家の場合・「内政マニア」北条家

 さてこの記事では、北条家のまとめとして、その「家風」を見てみよう。

 初代・宗瑞から三代目の氏康治世の前半までは、北条家は関東においては新興勢力であったから、やむなく博打を打つこともあった。例えば二代・氏綱の時の「国府台合戦」や、三代・氏康の時の「川越夜戦」(実際には夜戦ではなかったので、「砂窪合戦」と呼ぶ人もいる)がそうである。強大な敵に対し思い切った決断をし、大規模な会戦に勝利した結果、その勢力を大きく伸ばしている。

 だが代が進み統治が安定してきた頃になると、北条氏には「王者の風格」が出てくる。大きな会戦を挑むような博打を打たなくなり、基本的には「大軍でもって少数の敵に当たる」という、真っ当な戦略を取るようになるのだ。(特に氏康の後、氏政の代になってからは、そうした傾向が強くなる。また武田家に負けた「三増峠の戦い」といい、徳川家に負けた「黒駒合戦」といい、名のある戦国大名同士の戦いにおいては、北条家の勝率は低い。)

 だから北条家の侵攻スピードは、そんなに速くはない。1546年の川越夜戦で山内上杉氏を叩きのめし、53年には武蔵国を、55年には上野国をほぼ支配下に置く。その後、上野から下野、そして下総へとドミノ倒し的に進んでいくかと思いきや、そうでもないのだ。どっしりとした「王者の戦い方」とでも形容すべきか、決して急がないのである。そのスピードの遅さゆえに、佐竹にしても里見にしても、大軍を動員してあと一歩で滅ぼせる、というところまでは行くのだが、どちらも横やりが入って撤退している。

 攻められた時もそうである。上杉謙信は毎年のように越後から越山して関東を荒らしまわった。そんな侵略者に対して、北条家が取った基本戦略は正面衝突を避けることであった。会戦を挑まんとする謙信の誘いには、決して乗らなかったのである。

 

 

上杉家が関東において行った略奪行為、「人取り」についての記事はこちらを参照。

 

 好き放題に略奪され、国を荒らされる北条家であったが、比較的最近支配下に置いた上野や下総・武蔵北部はともかくとして、伊豆・相模そして武蔵南部の国衆の多くは、北条家についていったのである。領国内における統治がうまくいっていた証拠であり、また北条家の関東支配は崩れない、と思われていたことを意味する。実際、毎年のように越山してくる謙信であったが、夏から秋になると必ず越後に引き上げていったから、上杉方に転じた国境の国衆らも、すぐに北条家に靡いてしまうのが常であった。

 

北条氏の勢力圏イメージ図。五代・約百年かけて、ここまで広大な領域支配を築き上げた。勢力圏の境目は時期によって伸び縮みするので、あくまでも参考程度である。例えば氏綱の代に手に入れた、駿河国東部・富士川以東の地は、氏康の代に今川家に返却している。その氏康の時に上野国まで勢力を伸ばした北条家だが、1560年代に入ると毎年のように「恐怖の大王・上杉謙信」が山を越えて襲来してくるようになる。特に60年から翌61年にかけての本格的な越山の際は、本拠地・小田原城まで囲まれてしまい、更には鎌倉鶴岡八幡宮において謙信の関東管領就任式まで行われてしまう屈辱を味あわされている。この度重なる越山がなければ、北条家の関東制覇はもっと早まっていたのは間違いないところだ。

 こうした確固たる統治体制を敷けたのは、攻める際の腰の重さと表裏一体ともいえる、着実な領国経営の賜物だろう。北条家の特性として、長年に渡って内政に力を入れていたことが挙げられる。そもそも伊勢家は幕府の奉行衆として、借銭や土地の売買などに関わる業務を主に行っていた家柄であった。

 北条家の善政の証としてよく言及される、年貢率・四公六民は江戸時代の創作だが、疲弊した民を助けるための減税、徳政令、目安制度、宿場整備、伝馬制の確立など、数多くの商業・産業の振興策を執っている。氏康が金剛王院に送った書状が残っており、そこには「分国中に徳政を発布し、妻子や下人の売り証文を捨て、年を遡って解明し、ことごとく返還させた。また当年は諸一揆の人々に徳政を行ない、とりわけ公方銭の本利4000貫文を諸人のために破棄、金融業者から押収した現金を人々に配布した」旨が記されている。

 前記事で紹介したように、北条家は家臣に宛がう所領を精緻に調整していた。同じような熱心さで、内政においてもマニアックかつ細部まで気を遣った統治体制を執っていたのであった。

 初代より三代続けて、名君を輩出したことも大きかったろう。こうした治世の実績の蓄積こそが、北条家というブランドを構築したのであり、手堅い支配体制を可能にしたのであった。(続く)