根来戦記の世界

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日本中世の構造と戦国大名たち~その⑩ 北条家の場合・その堅実かつ緻密な領域支配

 さて氏綱であるが、彼は有名な「虎の印判状」を制定している。この虎の印判状がなければ、郡代・代官は支配下の郷村に公事・夫役の徴発などの命令を下すことができなかった。これまでローカル勢力に一任されていたこうした行為が、以後は伊勢氏の同意なしには、勝手にできなくなったことを意味する。つまりローカル勢力は、中間搾取の入り口を閉ざされてしまったのだ。

 次の氏康の代になってから、こうした動きは更に進む。領国内の郷村に対してこれまで地元勢力から取られていた雑多な公事(諸点役)を廃止する代わりに、北条家に貫高の6%を納めさせるという制度を導入しているのだ。また郷村がローカル勢力に不当な行為を受けた場合、その訴えを受け付ける目安制度も設けている。中世日本の特徴として、権利や上下関係の交錯した関係性が挙げられるのだが、このように国衆らローカル勢力の行動を制肘したことで、リゾーム構造をツリー構造に変化させた、と見ることができるだろう。

 北条氏は、検地を積極的に行ったことでも知られている。当たり前だが、検地は在地勢力が最も嫌がることである。ただこれは差出検地と呼ばれる、在地勢力に貫高を自己申告させる方法が主であった。彼らは当然、実際よりも遥かに低い数字を報告してくる。しかし相模国において戦国初期の1506年という早い時期に、差出といえども検地を行ったのは特筆されるべきことである。確認される限りでは、戦国大名が行った初の検地事例なのである。

 これにより宗瑞は新領土の村落の貫高を統一的に把握し、それなりに修正した税額を更新することができた。従属してきた国衆が多くいる地であったなら、とてもできないことであっただろう。大森氏を駆逐し、新たに領土を得たタイミングであったからこそ可能だったのかもしれない。以降も北条家は領地内における国衆らの抵抗度合いを見極めながら、ゆっくりと領内の検地を進めていったのであった。

 次に北条家を支えた、軍事システムを見てみよう。

 家臣らを軍団として編成していくにあたって、宗瑞は以後の北条氏の根幹をなす「寄親・寄子制度」と呼ばれるシステムを採用している。これは有力な一族や重臣を「寄親」つまり軍団長とし、配下にその他の中小家臣を「寄子」として配属し、一手をなすものである。

 この制度における親と子の関係性で面白いのは、この軍団は必ずしも本領がある地方ごと、つまり地理的な関係でまとまっているわけではない、ということである。ではどういう関係性でつながっているのかというと、元は敵であった国衆が大名に服属した際に、その仲介に入った有力家臣の寄子になる、という仕組みなのである。

 例えば伊豆攻略の過程で、江梨郷の鈴木家が宗瑞に下るのだが、これは重臣・大道寺発専の取りなしによるものであった。以降、鈴木氏は軍団編成において大道寺氏の寄子となるのだ。また何か事が起こったら、鈴木氏は真っ先に大道寺氏を頼ることになる。後に鈴木氏は、伊豆郡代の笠原氏と夫役賦課を巡ってトラブルになるのだが、寄親の大道寺家を頼って解決してもらっている。これは要するに、親分・子分の関係性である。

 この「寄親・寄子制」は北条氏に限らず、多くの大名家に見られる制度である。ちなみにこの場合の大道寺家のように、主家と服属する国衆の間にある存在を「取次」という。最近の研究では、この「取次」が果たした役目が、戦国において極めて重要であったことが分かっている。(これに関しては別の記事で後述する。)

 これと並立して機能したのは、領国支配における「支城制」である。北条氏の領国では支城に拠った支城領主がおり、そこに軍事力として配置されるのが上記の「寄親―寄子」で繋がった衆であった。そして支城領主には、これらの衆に対する指揮権が付与されたのである。主な支城としては本城の「小田原衆」をはじめ、「韮山衆」「八王子衆」「江戸衆」「松山衆」「玉縄衆」「小机衆」などがある。

 上記で説明したように、「寄親―寄子」は必ずしも地理的条件で繋がった関係ではない。北条氏は1559年に「所領役帳」という分限帳を残している。これを元に、「小机衆」の内実を見てみよう。

 西股総生氏の研究によると、小机衆の構成員の所領の在処を調べると、小机領にある所領が47%、領外の所領が48%、本城から宛がわれるサラリー的な御蔵出が5%、という構成比率になる。つまり領内と領外、それぞれがちょうど半分ずつになるように、調整して所領が宛がわれているのである。こうすることによって、支城領主の在地性をある程度、制限していることが分かる。

 ただ勿論、支城によって事情は変わるので、全ての支城が必ずしも小机衆のような構成比率だったわけではない。例えば松山衆は支城主である狩野介以下、15の家で構成された衆だが、うち10家の知行地はほぼ伊豆・相模に存在したことが分かっている。「所領役帳」が作られた1558年時点で、松山衆は最前線に近い位置にあった。以上のことから鑑みるに、この時点での松山衆は地元から選抜されて最前線に配置された、精鋭軍団であったことがわかるのだ。

 

小田原城蔵「北条氏康像」。戦国時代を代表的する大名のひとりである。上杉謙信武田信玄今川義元といったビッグネームたちと対等に渡り合い、北条氏の全盛期を築き上げた、文句なしの名君。北条氏の統治システムは、彼の治世において一応の完成をみるのである。内政が得意であった氏康だが、川越夜戦こと砂窪合戦の事例を見ても分かるように、時に応じて博打を打つことも躊躇わなかった。

 ひと昔までの戦国大名についての理解は、「国を大きくしていくと同時に国内の抵抗勢力を滅ぼして直轄地を増やし、中央集権化を進めていく」というものであった。しかし最近の研究で、大名本家の直轄地というものは、そこまで大きくはなかったことが分かっている。実際、北条本家が持っていたそれも、領地内でそこまで大きな比重を占めていなかったと見られている。

 北条氏をはじめ大名たちはなぜ、直轄地を増やさなかったのだろうか?簡単に言ってしまうと、統治する手間がかかりすぎるからである。直轄するということは、別に統治のための代官を任命するか、村落の名主を通じて管轄しなければならない。そんなことをするよりは、領域支配を任せるほうが効率よかったのであった。

 直轄地を増やさなくても、中央集権化はできる。北条氏の取った方法が、前述した印判状であり、一律にかけられた6%の懸錢であり、慎重にコントロールされた所領配分なのであった。(続く)