根来戦記の世界

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戦国時代の京都について~その② 総構で守られた城塞都市

 戦国期に入ると、京都はどう変わったのだろうか。

 戦国の京は、時期によって大きく姿を変えている。「応仁の乱」以前と以後とでも大きく変わるのだが、一番変わったのは、戦国末期の1591年に秀吉が10万人を動員して行ったといわれている、京の大改造だ。

 秀吉は新たにまず内野、つまり平安宮跡に自らの居城「聚楽第」を定める。そして京の町はこの聚楽第を中心に再編成が行われたのである。殆どの寺院群は「寺町」ないし「寺の内」へと強制移転され、都市そのものは「御土居」と呼ばれる土塁と堀で囲まれたのである。聚楽第を中心とした、ひとつの城塞都市に生まれ変わったのだ。

 この聚楽第はわずか8年で破却され、御土居もその後、京の拡大によって消えてしまうのだが、現代に通じる京の原型が整備されたのがこの時なのである。

 さて拙著の1巻「京の印地打ち」の時代設定は、1555年の春である。この時期の全国各地の状況を見てみよう。まず京を含む畿内三好長慶支配下にあり、対立していた足利義輝は近江に逼塞している状況である。この時がまさしく、長慶のこの世の春であった。

 地方に目を転ずると、川中島ではこれが2回目の対陣となるが、武田信玄上杉謙信の睨み合いが続いている。関東では北条氏康が里見氏を内房から駆逐、本拠である安房まで追い込んでいる。尾張では、この時21歳の織田信長が国内をほぼ統一しかけている。そしてこの信長に、小物として仕えたばかりの18歳の若者こそが、先述した「御土居」を造ることになる秀吉なのであった。

 ではこの時点、「御土居」で囲まれる36年前の1555年の京の姿は、どのようなものであったのだろうか。まず応仁の乱から続く戦乱によって、この頃の街区は大幅に縮小して、上京と下京とに分断されてしまっている。上京と下京とを結ぶのは、主に室町通が使われていた。街道筋ともいえる室町通沿いには、ぽつぽつ建物も建っていたようだが、二つの京の間は基本的には閑散として人家もなかったようである。

 

現在の地図に、平安京と1555年の街並みを加えたもの。赤い方形の線が平安京で、青色で示したのが「上京」と「下京」の街並みである。戦国期の京の規模が小さいのがよく分かる。上下京間の移動には主に室町通が使用されており、16世紀半ばには街道沿いに市街が形成されつつあったようである。地図上では表現していないが、上下京の外にも民家は広がっていて、特に下京の東側、鴨川の対岸にある祇園社に通じる四条橋、そして清水寺に通じる五条橋、この2つの橋の周辺は繁華街になっていた。

 

 1526年ごろに、連歌師・柴屋軒宗長が記した「宗長手記」にはこうある――「関山を越え、粟田口まで来たが誰にも会わない。京のみやこの規模は、昔の十分の一にも及ばない。内裏も五月の麦畑の中に浮かんでいるようだ」。この時期の上京と下京の間、三条より北から一条にかけては、一面の麦畑が広がっていたことが分かる。

 みやこの規模が、なぜそんなに小さくなってしまったかというと、戦乱から身を守るために、みな固まって住んだからである。上京と下京、それぞれは「総構(そうかまえ)」と呼ばれる土塀と堀によって守られていた。土塀といっても馬鹿にしてはいけない。ちゃんと狭間もついているし、一部には堀もある。門の上部には、櫓まで築かれていたのである。

 つまり秀吉が京を囲む「御土居」を造るより前に、上京と下京は既にそれぞれ「総構」と呼ばれる城壁で守られていた、ということになる。

 ただこの時期の「総構」と、後年築かれた「御土居」とでは、規模もさることながら、性質的に大きな違いがひとつあった。「御土居」は当時、最強の権力者であった太閤である秀吉が築いたものだ。だがこの「総構」は違った。これを築いた主体は、時の権力者たち――衰えつつあった室町幕府や、当時畿内を支配していた三好家、そして叡山などの寺社勢力――ではなく、京の町人たちであった、という点である。

 京の町人たちは、なぜ・どのようにして、こうした総構を造ったのであろうか。それには日本中世の非情なルール、「自力救済」が関係しているのである。(続く)