ここで一回、倭寇から離れて当時の日本人奴隷について見ていきたい。16世紀から17世紀にかけて、大勢の日本人が東南アジアのみならず、インドや中南米にまで移住している。パターンとしては、これまで見てきたように、まずは貿易に関わる商人として。次にタイ・フーサのように海賊、つまり倭寇として。そして意外にも多かったのが奴隷として、である。
戦国期、大名たちは近隣に侵略を繰り返した。侵略の際には乱取りがつきものだ。拙著の2巻冒頭にちょっとだけ出てくるが、和泉の国に佐藤宗兵衛という男がいる。1502年に根来寺と同盟関係にあった彼が日野根に侵攻した際、男女を問わず周辺の住民を生け捕りにした、と記録にある。多くの妻子らが捕らわれてしまった日野根荘では、身代金を100貫文出すから返してくれ、と宗兵衛に交渉したが、決裂している。攫った方はもっと高く踏んだくれる、と思ったのかもしれない。
上記の場合は身代金目的の人取りだが、請負ってくれる人が誰もいない場合には、容赦なく奴(やっこ)、つまり奴隷として売り払われてしまった。上杉謙信は関東に毎年のように出兵し、その際には略奪を行うのが常であったのだが、人もまた多く攫っている。略奪の後に開かれた市では、安値で人が売り払われた、と記録にある。人市、つまり奴隷市場がたっていたのだ。(該当資料は誤読である、という異論がある。その通りかもしれない。ただ人取りを含む略奪行為は、当時の軍兵の『当然の権利』として認められていたものだったから、上杉軍も『常識の範囲内』で行っていただろう。少なくとも上杉の北条攻めに呼応した関東諸氏は、積極的に略奪&人取りをしていただろうと思われる)
上杉氏だけでなく、多くの大名がこのように人身売買をしていた。九州では1586年ごろから、薩摩の島津氏による豊後侵攻が始まるが、フロイスの記録には島津勢が「おびただしい数の人、特に婦人・少年・少女たちを拉致した」と記されている。また臼杵城攻めの際は「婦女子含めて、3000人を攫った」ともある。これら拉致された人々の多くは、肥後や薩摩において買い取られていったのだが、この2年後に肥後は飢饉になってしまう。これらを食わせることができなくなった主たちは、奴隷たちを島原まで連れて行って、二束三文で転売した、とある。
こうした国内状況に目をつけたのが、この頃日本に来ていたポルトガル人である。東南アジア各地に、植民地を経営しはじめていたポルトガル人は、働き者の日本人を好んで使った。単純な労働力の他、家庭内奴隷、つまり召使としての需要が高かったようである。
1570年~1590年にかけて、マカオで最も多く取引された奴隷は、日本人奴隷であったという。ちなみにそれ以前は、倭寇が攫った中国人奴隷であった。1592年以降は朝鮮人奴隷が急増する。秀吉による文永・慶長の役の影響である。この時は供給量があまりに多かったため、奴隷価格が劇的に下がったと伝えられている。
こうした奴隷の出荷先は東南アジアではマカオ、マラッカ、そしてインドのゴアなどが多かったが、中南米のメキシコやアルゼンチン、ポルトガル本国まで渡った日本人奴隷もいたことが分かっている。
年季奉公のつもりで前金を貰ったのが、実は奴隷としてわが身を売り飛ばす契約だった、という悲惨な例も見受けられる。年季奉公という概念がないポルトガル人は、これを恣意的に解釈して「永久的奴隷」に変えてしまう場合が往々にしてあったのだ。特に主人が死んだ際の、遺産相続時に契約内容が書き換えられてしまうことが多かったようで、関連する裁判記録が残っている。(続く)