明が残した記録に、非常に興味深い内容のものがある。前回の記事で、薩摩からの船が捕まった話を紹介したが、その1か月後の48年4月に別の密貿易業者・方三橋という男の船が、同じように双嶼付近で明軍に捕まっているのだ。
その記録によると、押収したこの船の荷には「小型仏郎機4・5座、鳥嘴銃4・5箇あり」、つまり大砲と火縄銃がそれぞれ4~5丁あったとはっきりと記されてある。そしてこの船の乗員であった陳端という男は、明の取り調べに対して、これらの火器はなんと「ポルトガル人が日本にやってきた際に、戦って奪い取ったものである」と述べているのだ。
この「火縄銃が奪われた戦い」とは、いつどこで行われた戦いなのだろうか。実はポルトガル、日本側双方にヒントとなる記録が残っている。まずはポルトガル側の記録から。
ペロ・ディエスというガリシア人がいる。彼は1544年に中国人のジャンクに乗ってマレー半島から双嶼を経由して、8月ごろに南九州にやってきたのだが、そこで戦闘に巻き込まれているのだ。
彼がスペイン人に語った記録にはこうある――「5隻のジャンクが日本のある港にいたところ、100隻以上の中国人のジャンクが互いに繋ぎ合って襲ってきた。5隻のジャンクに乗っていたポルトガル人は、4隻のボートに3門の火砲(仏郎機砲)と16丁の銃(アルケブス銃、つまり火縄銃)を積んで反撃、多くのジャンクを破壊し賊を殺した」。
次に日本側の記録を見てみよう。大隅半島の国衆であった池端清本が、1544年11月5日に作成した相続文書には、彼の孫である弥次郎重尚が「小根占港において唐人と南蛮人が戦った際に、手火矢(火縄銃)に当たって戦死した」と記されているのだ。
上記2つの記録は、同一の事件のことを記していると見て間違いない。弥次郎は、この戦闘に何らかの理由で巻き込まれてしまったのだろうか。或いは一番ありそうなのは、襲撃側のジャンクに加担して、ディエスの乗っていたジャンクの積み荷を奪わんと襲いかかった、ということである。
双方の記録に「中国人」・「唐人」とあるから、攻撃の主体は中国人をリーダーとする密貿易商人、つまりは倭寇であったと思われる。商売敵――というよりは単に、「こいつらは、お宝を持ってそうだ」と踏んだ倭寇が、積み荷目当てで襲撃したというところか。だが引っかかるのは、敵が「100隻以上の中国人のジャンク」であったということである。10年後の「嘉靖の大倭寇」の時期ならまだしも、1540年代の小根占港に100隻もの大艦隊が押し寄せてきて、しかもそれが撃退される、ということはありそうにない。
この「100隻」というのは、大小取り混ぜた舟の総数だったと思われる。内実は殆どが小舟であって、浜からそれを使って一斉に漕ぎ寄せてきた、ということだろう。「互いに繋ぎ合って襲ってきた」というのがよく分からないが、相手を逃がさないために、縄を繋げた小舟で包囲しようとしたのだろうか。
つまりはこの「中国人のジャンク」に乗っていた倭寇どもと、現地の国衆が結託してディエスらを襲った、ということである。或いは、池端清本自身も現場にいて、孫の弥次郎ら一族を率いて戦闘を主導していたかもしれない。
いずれにせよ、この戦闘で略奪者どもは撃退され、弥次郎も戦死してしまったわけだが、もしかして積み荷の幾ばくかは奪えたのかもしれない。もしそうだとするならば、方三橋の船にあった火縄銃4~5丁というのは、この戦いでポルトガル人から奪ったものであったかもしれない。ディエスの記録には「16丁の銃を、4隻のボートに分散して応戦」とあるので、ボートを1隻奪えば数的にはちょうど合う。
方三橋の船にあった火縄銃の出自が、この時の戦いで奪ったものでなかったとするならば、記録には残っていない他の船から奪ったもの、ということになる。1540年代に多くの密貿易船が日本に訪れているが、上記の例のように、隙を見せると現地の国衆(海賊)、もしくは商売敵(倭寇)に殺されて、積み荷を全て奪われることも珍しくなかった、ということだ。
その辺りの事情を良く知っていたのは、イエズス会士らであった。1552年にフランシスコ・ザビエルがゴアに送った書簡には「もしスペイン船が日本に来航すれば、身に着けた武器や衣類を奪わんとする貪欲な日本人らによって、全員を殺害してしまうでしょう」とある。(ただしこの書簡は、スペイン人の艦隊派遣の意図を挫折させるために書かれたものらしいので、多少は割り引いて考える必要がある。)また同じイエズス会士のフランシスコ・ペレスは「ザビエルがジャンクに乗って日本に渡航したことは幸いであった。というのは、もしポルトガル船で来た場合、ポルトガル人と日本人との間で争いが起きないことは、殆どないからである」と述べている。
さて1957年に鹿児島県・阿久根の砂浜から、ポルトガル王国の印章が記された小型の仏郎機砲が発掘されている。この仏郎機砲は一体、何でこんなところに埋まっていたのであろうか?
実は遡ること約450年前、1561年12月にポルトガル商人、アフォンソ・ヴァスがこの阿久根港にて、日本人の海賊に殺害されるという事件が発生しているのだ。この件に関して、島津貴久がポルトガルのインド副王に送った、釈明の書簡が残っている。
そしてこの大砲は、アフォンソ・ヴァスが船上で襲われた際に戦闘のどさくさに紛れて、海中に落ちてしまったものではないか?と推測されているのだ。
改めて戦国時代というのは、油断も隙もない恐ろしい時代であった。日本にやってくる密貿易商人たちも、命がけであったことがよく分かる。もちろん逆のパターンもあって、その機会さえあれば、密貿易商人が現地を略奪することもあっただろう――倭寇として。(続く)