根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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根来衆と鉄砲~その④ 火縄銃の国産化と、その運用を支えた貿易体制

 複数のルートで、日本各地に伝播した火縄銃。前記事でも触れた通り、日本の鍛冶屋は日本刀によって培われた鍛鉄技術に秀でていたから、すぐに技術を習得、各地で鉄砲生産が始まった。国産の第一号が造られたのは、種子島である。関の出身であった鍛冶師・八坂金兵衛が試作に成功したのが1544年だとされている。それとほぼ同じタイミングもしくは少し遅れる形で、根来寺門前町である西坂本において、津田監物芝辻清右衛門が火縄銃の試作に成功している。

 

種子島開発総合センター鉄砲館蔵「伝八坂金兵衛作火縄銃」。代々、種子島家に伝わってきた、国産第一号と推測される火縄銃。先の記事で紹介した、1549年6月に発生した「黒川崎の戦い」において使用されたのは、この鉄砲かもしれない。

 

 ただ種子島においては以降、火縄銃の製作そのものは盛んにはならなかったようだ。理由としては地理的にあまりに不便であったということ、そしてもうひとつ、「嘉靖の大倭寇」に参加した働き盛りの若者たちの多くが帰ってこなかったこと、つまり若年層の人口減ダメージの影響が大きかったのではなかろうか。

 

倭寇の大物・徐海の甘言にのってしまい、その略奪船団に参加して帰ってこなかった、種子島の若者たちの顛末はこちら。

 

 紀州・西坂本ではどうであったろうか。根来の境内、そして西坂本からも鉄砲鍛冶場の遺構は、現時点では発見されていない。しかし造られた鉄砲が試作だけで終わるわけがなく、鉄砲の生産体制は更に発展したと考えるのが普通だろう。境内は神聖な場所であった故に、凡そ生産活動は行われてなかったという説があるので、こちらはともかくとして、西坂本と紀ノ川の間に「金町」という鋳物師や鍛冶屋が集住していた町があったようなので、ここに鉄砲鍛冶工房があったのではないか、と個人的には思っている。

 このブログのもはや常連である、慶誓こと佐武源左衛門であるが、例の「佐武伊賀守働書」において、雑賀で12歳の時に鉄砲の試し撃ちをした、という記述が残っている。慶誓が撃ったこの鉄砲が輸入品である可能性もあるが、この西坂本製であった可能性が高い。西暦に直すと1549年、既にこの辺りでは(工房ごと数人レベルで行うものだったと思われるが)、鉄砲の生産が始まっていたということになる。珍しいものとして扱っているようなので、生産体制に入ってまだ間もない、初期のロットだったのかもしれない。

 また「信長公記」によると、信長が橋本一巴を師として鉄砲修行を始めているのだが、これが同じく49年のことである。この時期、ぼちぼち鉄砲が尾張あたりまで普及し始めているのが分かる。

 この地で生産された鉄砲は、高価な武器として紀ノ川から河口にある紀ノ湊を通じて、全国に輸出されていった。「北条五代記」には、杉乃坊の根来法師が関東を駆け巡って鉄砲を教え広めた、という記述がある。他にも武田・上杉などの大名家に、多くの鉄砲を送った記録が残っている。

 次に、西坂本以外の鉄砲の生産地を見てみよう。

 まずは堺から。「鉄炮記」によると、堺の商人・橘屋又三郎が種子島に来島、その地で2年ほど滞在し、製造法を学んで持ち帰り、堺にて鉄砲製造をはじめ「鉄砲又」との異名を持った、とある。彼は実在の人物であったのは間違いないようだ。

 

橘屋又三郎についての詳しい記述は、いつものこちらのリンク先を参照。鉄砲は鍛冶屋の領分だが、鋳物師であった可能性もあるらしい。金物全般を扱っていた商人だったのだろうか。

 

 ただ、彼が種子島から帰ってきた時期が不明なので、堺での鉄砲生産の開始がいつになるのかが分からない。西坂本の鉄砲鍛冶・芝辻清右衛門は、1585年の秀吉による根来焼き討ちの前に、この堺に移住しているから、少なくともそれ以降には堺において鉄砲生産が行われていたのは確実である。江戸期の記録から、芝辻の子孫が分業制で鉄砲を制作していたことが分かっている。

 鉄砲鍛冶として最も有名なのは、近江の国友村である。「国友鉄砲記」によると国友村における鉄砲生産は、1550年から始まった、とある。同書の記述は、今ひとつ信憑性に欠けるとされているが、他の史料から国友製の鉄砲の起源は、遅くとも1553年までは遡れるのが確認されている。

 また先の記事でも触れたが、大友氏も別ルートで火縄銃を入手していた。大友氏が支配する豊後は、日本有数の刀剣生産地でもあったから、技術的基盤は整っていた。大友氏の御用鍛冶・渡辺氏はポルトガル人から直接に技術指導を受けていたらしく、鉄砲生産は早かったようである。1559年には最初の鉄砲生産に挑戦、63年には領内において集中生産体制が確立されている。翌64年、立石原の合戦において大友氏は何と1200丁の鉄砲を使用した、と記録にある。流石に数には誇張があると思われるが、早くから生産体制が整っていたのは確かなようだ。

 いずれにせよグローバルな貿易体制があってこその、鉄砲の普及であった。玉を放つためには黒色火薬が必要で、その原材料は硫黄・炭・塩硝である。うち硫黄は豊富に取れた日本だが、材料の7~8割を占める塩硝の元になる天然硝石は採取できず、中国やタイからの輸入に頼っていた。

 日本で天然硝石は採れなかったが、塩硝を得る方法はないことはなかった。床下に穴を掘り、その中に蚕のフン・干し草・土を交互に積み重ね、4~5年経つと硝化細菌による発酵熟成により、硝酸カルシウムが生成される。土の中に染み込んだ、この硝酸カルシウムを抽出すれば塩硝を得ることができた。加賀藩が発明した、この「土硝法」の確立によって、いずれ国産塩硝の採取も可能になるのだが、本格的に生産されるようになるのは江戸期に入ってからである。

 地域によっては戦国期にも、より原始的な方法である「古土法(50年ほど経った民家や、厠の床下の土から抽出する方法)」で塩硝を生産していたところもあったようだが、需要を満たすほど多くは取れなかったし、採取にも時間がかかった。

 また鉄砲玉の原材料となる鉛の調達も、国産だけでは厳しかった。16世紀後半の豊後府内の遺跡から出土した鉛弾を分析調査したところ、30%がタイにあるソントーという単一の鉱山から掘られた鉛であったことが分かっている。同時期の紀州から出土された鉛弾に至っては、実に80%が日本以外のアジア産の鉛であった。

 また東南アジア各地で、日本製と思われる火縄銃が見つかっている。これを日本製火縄銃が海外へ輸出されていた例として挙げる人もいるようだが、これらの鉄砲が本当に日本から来たものなのか、だとしたらいつどこで造られたものなのか、研究が全く進んでいないため、その実態は不明である。

 個人的には、これらの多くは現地に移住した日本人が持ち込んだものではないかと思っている。マラッカやゴアにはポルトガルの大規模な火器工廠が先行して存在していたし、現地でも家内制手工業のように小規模な形でなら、鉄砲鍛冶を行うこともできたはずだ。いくら質が良かったとはいえ、日本の鉄砲がわざわざ海を渡って海外の市場に食い込めたかどうか。ある程度は輸出していたかもしれないが、そんなに大規模なものではなかったと思われる。

 それよりも、日本以外では絶対に手に入れることができなかった日本刀の方が、まだ需要が高かったような気がする。過去の記事でも紹介したが、わざわざ日本刀の刀身を輸入して、槍の穂先につけるなどして運用していた国もあったくらいなのである。(続く)