根来の鉄砲隊といえば、やはり杉乃坊だ。そもそも種子島から火縄銃を持ち込んだのが杉乃坊算長で、津田流砲術という日本初の鉄砲術の流派を起こすくらいだから、当たり前と言えば当たり前なのであるが。この津田流をさらに発展させたのが、彼の子であり兄の養子となって門跡を継ぎ、杉乃坊の最後の門主となった、杉之坊照算こと自由斎である。彼は自由斎流という流派をたて、これを世に広めた。
この杉乃坊系列の子院に、左京院という子院がある。左京院は和泉国日根郡・入山田村大木を本拠とする、奥左近家という土豪が設立した子院である。子院の門主の名を左京院友章(友童?)、別名を行来(おく)左京とも言い、当時の人々の間でも良く知られた剛の者であった。
実は彼は1555年に発生した山分けの出入りにおいて、佐武源左衛門こと慶誓と槍を合わせた行人なのである。(拙著「跡式の出入り」においては、主人公も危うく殺されそうになっている。)源左衛門の残した記録により、彼は槍を使っても強かったことが分かるのだが、本領は戦闘の指揮にあるのだ。
行来左京 VS 慶誓の戦いの結末は、こちらの過去記事を参照。左京は根来衆を代表する、勇者の一人であった。
1562年、三好氏と戦っていた畠山氏から援軍要請を受け、左京院は86騎の郎党を率いて畠山高政の陣に加わっている。その後、3月5日に発生した「久米田の戦い」において、なんと三好長慶の実弟・三好実休を鉄砲で仕留める、という大手柄を立てているのだ。この時の状況は、前線にいる味方を援護するため他の部隊が離れた隙を狙い、手薄になった実休のいる本陣に後方から鉄砲隊で奇襲をかける、というものだったらしい。
本陣を崩されたら、戦さは負けだ。供回りを引き連れて自ら逆襲しようとしたところは、流石は勇将・三好実休である。左京院率いる手勢は少数だったから、十分に勝てると判断したのだろう。だが相手は根来衆である。左京院の手勢に掛かっていこうとしたところ、根来衆の誰かが放った鉄砲の玉が命中、あえなく最期を迎えてしまったのである。総大将を討たれた三好勢は総崩れになり、大敗している。
左京はこの戦いで、実休の差料・備前長船「三好実休光忠」を奪い、畠山高政に献上している。その後、この刀は信長→秀吉→秀頼と伝わっていったようで、その由来と共に、左京の名が広く世に知られていたというわけだ。
同じく有名な根来者に、奥右京こと小密茶(小道者とも)という男がいる。惣福院という、那賀郡荒川荘を根拠としていた土豪・奥氏が建立した子院に属する行人である。彼の名を高めたのは、1584年に発生した岸和田合戦だ。
紀州勢と対立していた秀吉が、家康と戦うために尾張に出陣した隙をつき、畠山・根来・雑賀の連合軍2万が、岸和田城まで攻め寄せたのである。岸和田城を守る中村一氏は寡兵であったが、意表をついて逆に討って出て、3月21日にこれを破った。たまらず連合軍は撤退することになったのだが、この撤退戦の際、殿を受け持ち鉄砲隊を指揮したのが、この小密茶であったと伝えられている。
追撃してきた中村勢に対して、彼は鉄砲隊を20人ずつの3隊に編成し、交代で斉射を放って寄せ付けなかった、と伝えられている。いわゆるこの三段撃ちの活躍により、彼の武名が知られるようになったのである。
ただ、この逸話が記載されている「続武家閑談」は、18世紀に書かれた戦国の武辺噺を集めた、いわゆる逸話集であるから信憑性は相当低い。江戸期には既に「長篠合戦における三段撃ち」の故事が知られていたから、これを基に創作したエピソードが小密茶にまつわる武辺噺に入り込んでいた可能性がある。
先に紹介した行来左京と違って、小密茶が有名になったのは実は明治に入ってからなのである。本願寺は神君・家康公と戦っていることもあって、江戸期に数多書かれた軍記物では、どちらかというと悪者側として描かれていた。そんな関係で本願寺側にたって前線で戦った者たちも主人公たちの引き立て役、要するにやられキャラとしての扱いでしかなかった。
しかし18世紀に「石山軍鑑」という軍記物が成立する。これは門徒向けに書かれた読み物であったから、本願寺サイドが悪く書かれていなかったのである。そして明治になって、「石山軍鑑」の世界観を受け継いだ「御文章石山軍記」という歌舞伎が上演される。この演目が、徳川家に配慮しまくっていたこれまでの反動からか、それなりにヒットしたのだ。「これは受ける」と判断した、機を見るに敏な大坂の文栄堂が、ほぼそのままの内容の「絵本石山軍記」という本を出版し、これが爆発的に売れたのである。権力者に対して大活躍する、民衆の姿を描いたこの「絵本石山軍記」を底本とした、講談・浄瑠璃、歌舞伎が次々と作られたことによって、演目の主要登場人物のひとりであった小密茶がブレイクしたという次第だ。
実際の彼は、非常に長生きしたようだ。1585年の秀吉の紀州侵攻の際には、千石堀城にいてこれと激闘を繰り広げたようだが、落城後も生き延びている。根来滅亡後は地元に逼塞していたが、すぐに同郷の仲間16人と共に浜松に出向き、家康から所領安堵の約束を取り付けている。
にも関わらず、1614年の大坂の陣では、なんと根来衆を率い豊臣方として大坂城に入城しているのだ。老いてもう一花、咲かそうとしたのだろうか。負け戦ではあったがここでも生き延びた彼は、最終的には300石で紀州浅野家に仕え、主家の転封に従い安芸へ行き、そこで死んだと伝えられている。(続く)