根来戦記の世界

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根来衆と鉄砲~その⑨ 佐武源左衛門の10の鉄砲傷

 おなじみ慶誓こと、佐武源左衛門も鉄砲の名手だった。彼が根来衆であった時期は短く、戦歴の殆どは雑賀衆としてのものなのだが、参考までに「佐武伊賀守働書」に記された彼の武勇伝を見ていこう。自ら記したこの記録によると、生涯で彼が参加した戦いの数は、確認できるだけで20回。鉄砲を駆使して、多くの敵を倒している様子が描かれている。

 一番の見せ場は、1570年に三好側について織田方と戦った際のエピソードである。河内の大海(おおが)という城の矢倉に陣取った源左衛門が、従者に装てんさせた鉄砲5丁を何回も取り替えて発砲し、攻め寄せる敵を何人も打ち倒した、とある。この戦いで彼が取った首は13、この戦闘で死んだ敵方のうち8割は自分が仕留めたものだ、と自慢している。なんとも贅沢な運用法だが、源左衛門のような手練れがこういう使い方をしたら、相当に効果的だったろう。

 他の戦いでも鉄砲を使って、多くの敵を倒している。それにしても大変なのは、戦闘が終わると(もしくは最中でも)、撃ち殺した敵の首をわざわざ取りにいっていることである。源左衛門は首取りにやたらこだわっているが、首のあるなしが褒賞に直結するから、取りにいかざるを得なかったのかもしれない。

 しかし戦闘中の首取りは危険な行為であった。1570年、織田方にいた根来衆と戦闘中に、自分に背を向けて首取りにいそしんでいた糸我左京という根来行人を、源左衛門は容赦なく撃っている。そして今度は、源左衛門がその糸我左京の首を取りにいこうとしたところ、糸我は敵4~5人に救出されてしまい(生死不明)、その首取りはできなかったどころか、逆に15人ほどの敵に追われ、慌てて逃げ出している。

 また「横取りされたので、取り返した」などという記述もある。まずは1557年、雑賀内での耕作地を巡る「荒地の出入り」における戦闘。敵方の武者、平内次郎の胸板を撃ち抜いた後、更に5~6人の敵を倒した。敵が退却したので源左衛門は追撃した。敵の構えを飛び越え、ふと後ろを向くと平内次郎の首を取ろうとしていた者がいたので、引き返してその男に文句を言った、とある。首に先に手を付けられてしまったから、手柄の半分は取られてしまったようだ。この時、かれはまだ20歳前後である。

 次にその19年後、1576年5月3日に本願寺の側にたって、信長方と戦ったときのことだ。雑賀の鉄砲隊に散々に撃たれまくり、信長方の大将・原田直政が戦死した、いわゆる「天王寺合戦」に参加した時のことである。この時も源左衛門は活躍したようで、本人曰く「100ばかり討ち取った」(流石に多すぎると思うが・・)とある。ところが戦闘が終わって、自分が射殺した立派な武者の首を取ろうとしたところ「(雑賀の)宇治の者ども」がその首を取ってしまった、とある。

 鉄砲で倒しても、誰がやったなどという証拠がないわけだから、こうしたトラブルはよく発生したと思われる。しかし源左衛門、この時39歳の男盛りだ。20歳の時は、首を横取りされても半分しか取り返せなかったわけだが、貫禄がつくと同時に、その名も広く知れ渡っていたのだろう。文句を言いに行った挙句、そやつらから見事に取り返し、兜首を穂先に刺して掲げてみせる源左衛門なのであった。

 このように、彼は優れた鉄砲使いであった。だが実は、撃たれた方もすごいのだ。彼の体には12の傷跡があったそうだが、そのうち10が鉄砲傷、1が矢傷、1が太刀傷、なのである。まず矢傷だが、これは1555年の根来における「山分けの出入り」の際に足に受けたものである(同じ出入りの際に、長坂院の中巻を兜に食らっているが、これは矢傷と一緒にカウントされている)。太刀傷とあるのは、どうやら1560年に阿波一宮において、本山勢に雇われて長宗我部勢と戦った時に受けた刀傷のようである。

 

前記事と同じリンク先だが・・1555年・山分けの出入りの際の、源左衛門の暴れっぷりと矢傷を受けた際の経緯は、こちらを参照。

 

 それにしても10の鉄砲傷、というのは何とも凄まじい。以下に彼が記録に残した内訳を記す。(傷を受けた時期の多くは不明)

・頬骨に受けて、玉は抜けずに残留。

・阿保の城で、袖口から1発。玉は抜けずに残留。

・腕に受けて、玉は貫通。

・右の中腕に受けた。

・左の中腕に受けた。玉は貫通。

・足の膝の元に受けた。玉は貫通。

・足の膝に受けた。

・足の踵に受けた。

・後ろの頭骨に受けた。これは重傷だった。

・腿に受けた。

 なんと頭部に2発も食らっている。1発は後頭部で死にかけており、もう1発は顔である。有名なフィンランドのスナイパー、シモ・ヘイヘのように、容貌が大きく崩れていたのではないだろうか。

 

Wikiより画像転載。冬戦争における、フィンランドの伝説的スナイパー「白い死神」こと、シモ・ヘイヘ。撃たれた左頬が崩れている。源左衛門の場合、頬骨に食らった玉はそのまま留まっていたとあるから、彼の容貌はもっと崩れていただろう。先述したように、彼は戦場で首泥棒から首を取り返しているが、こんな迫力ある面構えをしていた源左衛門に迫られて、「否」と言えるものは、そうはいなかったのではなかろうか。筆者なら、ためらわず渡す。

 

 彼が受けた鉄砲玉10発のうち、貫通が4発、そのまま体内に留まったのが2発、とある。残りの4発は外科的手段で摘出したのだろうか?貫通率は40%になる。当時の鉄砲玉は球形が主だったから、現代使われている流線形の銃弾と違って、貫通力はそこまではなかった。代わりに食らった時の衝撃は、相当なものだったはずだ。玉と一緒に抜けるはずの運動エネルギーが全く逃げずに、そのまま身体で受け止めることになるからだ。

 源左衛門は少なくとも1619年、なんと82歳まで生きていたのが確認できる。こんな大けがをしていて、更に体内に玉が2発も残留しているにも関わらず、長生きしているのが驚きだ。鉛毒は平気だったのだろうか。呆れるほどにタフな男である。(終わり)

 

<このシリーズの参考文献>

・南蛮・紅毛・唐人:十六・十七世紀の東アジア海域/中島楽章 編/思文閣出版

・大砲からみた幕末・明治 近代化と鋳造技術/中江秀雄 著/法政大学出版局

・日本の大砲とその歴史/中江秀雄 著/雄山閣

・鉄砲と日本人/鈴木眞哉 著/ちくま学芸文庫

・日本鉄砲の歴史と技術/宇田川武久 編/雄山閣

・世界史とつながる日本史 歴史・文化ライブラリー33/村井章介 監修

ミネルヴァ書房

・東アジア兵器交流史の研究/宇田川武久 著/吉川弘文館

・新説鉄砲伝来/宇田川武久 著/平凡社新書

・火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力/桐野作人 著/新人物往来社

・図説 中国の伝統武器/伯仲 編 中川友 訳/マール社

・その他、各種学術論文を多数、参考にした