根来戦記の世界

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根来衆と鉄砲~その⑦ 鉄製大砲の鋳造に成功した、凄腕の職人・増田安次郎

 戦国から、いきなり幕末の話になってしまった・・・すぐに話が逸れるのが、著者の悪い癖である。この記事では本筋と少し離れて、その後の日本の鉄砲と、特に大砲の技術的変遷について述べてみたいと思う。

 江戸期に入ると幕府によって鉄砲と大砲の生産は規制され、技術的進化が止まってしまう。しかしペリー来航により太平の眠りから目が覚めた幕府は、鉄砲と大砲の生産をようやく解禁した――と思ったら、今度は各藩に異国船対策として「海陸お固め」を命じるのだ。各藩は慌てて湾岸警備に必須の、鉄砲と大砲の生産に取り組むことになる。

 上記のような理由で注文が殺到したから、幕末において国産鉄砲の生産量は増大している。堺の鉄砲鍛冶・井上家の記録を見ると、1840年の注文数は296丁だったが、1859年には371丁、1866年には459丁と、数がぐんぐん伸びている。「鉄炮師ノ全盛」という言葉が残っているほど、活況を呈していたようだ。

 鉄砲鍛冶職人たちは、海外の技術も積極的に取り入れている。従来の火縄銃だけでなく、菅打ち(パーカッションロック式)銃なども製造していた。また既にある銃の改造も盛んで、前装式の火縄銃を尾栓から詰める方法に改良したものもあった。

 

堺市所有「上下2連・雷管式管ピストル和銃」。1863年に堺の鉄砲鍛冶が製作したもの。日本の職人はすぐに海外の技術をキャッチアップして我が物としたから、和式鉄砲も決して海外の水準に劣るものではなかった。ただあくまでも職人によるオーダーメイドの鉄砲造りであったから、個人で使用するならともかく、軍隊が使用するには向いていなかった。統一規格で大量生産された使い勝手のいい洋銃に、そして最終的には村田銃に取って代わられてしまうのである。堺市における鉄砲鍛冶は明治末頃までには、ほぼ廃業してしまったようだ。

 

 しかし問題は大砲の生産である。鉄砲と違って大砲鋳造のノウハウがなかったから、西欧各国から学ぶしかなかった。当時、日本各地に反射炉が建てられている。大量の鉄を短時間で一気に生産できるこの反射炉の建設は、日本の産業化に欠かせないものであったのだが、建設の目的のひとつは、大砲を鋳造することにあったのだ。

 ところが、この反射炉による鉄製大砲の鋳造はことごとく失敗している。海外ではうまくいくのに、日本では駄目なのだ。1857年、品川台場に配備された36ポンドの国産鉄製大砲を試射したところ、薬室部が破裂する事故が起きている。理由は先の記事で述べた、材料の和鉄による性質の故なのだが、当時の技術者たちには理由が分からず、トライ&エラーを重ねるしかなかった。(ちなみに青銅製大砲の鋳造は成功している)

 タタラで得られた和鉄は、黒鉛化するために必須のケイ素・炭素共が不足していたのだが、実は鋳造の際の炉内温度が十分に高ければ、ケイ酸がケイ素に還元され、鉄中のケイ素を増やすことはできた。そして反射炉を使うと、炉内温度はそこまで上がるのだ。にもかかわらず失敗してしまうのは、なぜなのか?これは反射炉の構造的要因による。反射炉は炉内温度を上げるため、効率良く「燃料の完全燃焼」を行うのだが、これにより酸化性のガスが発生し、期せずして鉄の脱炭現象が行われてしまう。ケイ素が微増しても、元々少なかった炭素が更に減ってしまったので、黒鉛化できず白鋳造になってしまっていたのだ。

 佐賀藩反射炉を使って16門の大砲鋳造に失敗した後、ようやく実用に耐えられる大砲の鋳造に成功しているが、これは原材料にヨーロッパ製のケイ素と炭素が豊富に含まれた鉄を使用したからなのである。佐賀藩は「電流丸」という船をオランダから購入しているのだが、購入時この船のバラストとして積まれていた「荷下鉄」を使って大砲鋳造を行ったのであった。

 この後日本は、タタラ以外の銑鉄方法を求めて、高炉の建設に進むことになる。高炉で精錬された銑鉄ならば、ケイ素・炭素共を適度に含んだものが得られたから、以降は国産の鉄製大砲が、ようやく安定して造れるようになった。明治も後半に入ってからのことであった。

 では江戸期には結局、質のいい鉄製大砲は造れなかったのだろうか?そんなことはなかった。一般にはあまり知られていないのだが、実は凄腕の職人がいたのである。

 その男の名は川口の鋳物師・増田安次郎。幕末に一宮藩や鳥羽藩などが、この安次郎に大砲を注文しており、彼の鋳造した鉄の大砲が各地に残されている。残されたこれらの大砲の試料分析をしたところ、何と黒鉛が検出された。これは「ねずみ鋳造」で造られたということになるのだが、この大砲のケイ素含有率は変わらず低かった。つまり材料は和鉄だったのである。

 

茂原市立美術館・郷土資料館保管「一宮藩大筒」。増田安次郎が鋳造に成功した鉄製大砲。一宮海岸の台場に置かれていた。大・中・小の3種類あったそうだが、大は残念ながら戦後の混乱期に盗まれてしまった。写真は小大砲である。

 

 一介の鋳物師であった安次郎が、これらの大砲の鋳造に成功したのは1844年のことである。彼はタタラで銑鉄された和鉄を、如何にして「ねずみ鋳造」に仕上げたのだろうか?

 鋳造に関する専門家・中江秀雄氏の研究によると、彼は甑炉(こしきろ)を使用したらしい。甑炉はタタラ炉よりは高温であったから、タタラ銑鉄を溶解する際に、若干だがケイ素の微増が期待できた。また銑鉄と炭をミルフィーユのように積み重ねて加熱し、溶けだした銑鉄を一番下の湯だめから取り出す、という方法で溶解するので、結果的に加炭が行われたのである。

 そのようにして出来上がった「なまこ(インゴッド)」を2つに割り、その破面を観察し、「白」であったら同じ手順で再び溶解にかける。これを最終的には破面が「ねずみ」になるまで繰り返し何回も溶解することで、鉄中の炭素量を高めたのではないか?と推測されているのだ。

 つまりケイ素が足らない分を、炭素の量で補ったのである。中江秀雄氏による再現実験の結果、ケイ素が不足していても、炭素量4.53%以上で黒鉛化現象が起こることが確かめられている。

 

「牧方市・鋳物民族資料館」に展示されている、甑炉の内部構造。甑炉の名前の由来は、食物を蒸す際に使用する「甑」の形に由来する。「上甑中甑下甑・湯だめからなり、鉄芯で補強した粘土の輪を積み重ねたもの。湯だめの底部には溶けた金属を流し出す出湯口、中甑には風を送り込む羽口が設けられている。湯だめには長い棹炭を縦に並べ、その上から羽口上部まで木炭だけを積み重ね、さらにその上に一定量の地金と木炭を交互に層状に積み上げて溶解する」とある。

 

 ただこの方法では、大量の鉄を一気に溶かすことはできなかっただろうから、鋳造できる大砲の大きさには限界があったと思われる。それでも小型とはいえ、鉄製大砲の鋳造に成功した増田安次郎は凄いのだ。一般的には無名の彼だが、日本一の鋳物師であったのは間違いない。改めて、日本の職人技術には目を見張るものがある。

 なおこの増田安次郎の血を引く分家が、今も川口の地にて工業を生業として続いているようだ。(続く)

 

日本の鋳造大砲の歴史について、とても分かりやすく紹介した本。著者は金属、特に鋳造の専門家であり、現存する昔の大砲から試料を採取、そのデータをもとに実験を行うなどして、安次郎の技術の再現に成功している。素晴らしい!こうしたアプローチ方法は、文献を専門とする歴史家には成しえないものだ。知的好奇心を満足させる1冊である。