さて、後期倭寇である。明が密貿易の本拠地である双嶼を撲滅させた。その結果、食えなくなった密貿易グループによる略奪が激化する、という逆効果をうむ。そして日本に居を移した王直や、若いころ大隅に住んでいた徐海を筆頭に、鄧文俊、林碧川、沈南山などといった、略奪行の敏腕プロデューサーらに誘われる形で、多くの日本人が後期倭寇に参加することになる。
これに参加した日本人だが、「籌海図編(ちゅうかいずへん)」によると、メインは薩摩・肥後・長門の人が多く、これに次いでその他の九州各地と、紀伊・摂津の人である、とある。ちなみに「南海通記」という書物において、伊予の村上海賊衆が倭寇に参加していた旨が述べられているが、これは江戸中期に成立した軍記物で信憑性に極めて乏しい、という評価の書物である。村上水軍が参加していたとしても、個人参加の少数に留まっていたのではなかろうか。外海と内海とでは、船の扱いも違ったものと思われる。
ともあれ、この時期の倭寇には多くの日本人が参加した。大規模な倭寇として有名なのが「嘉靖(かせい)の大倭寇」である。1552年から1556年にかけて、幾つものグループに分かれた大船団が、五月雨式に中国沿岸を来襲した。その規模と回数たるや、凄まじいものであった。
中国における倭寇の襲撃は、1551年までは年に1~2回程度であった。ところが1552年に13回、そして1553年には、いきなり64回に跳ね上がる。特にこの53年4月からは、数百の船を連ねた複数の船団が1年以上に渡って中国沿岸部を南北に行ったり来たり、略奪の限りを尽くし、さながら無人の野を行くが如しであった、という。
倭寇の襲撃回数は年を追うごとに増えていって、54年には91回、55年には、なんと101回(!)を数えている。回数的にはこれがピークであったが、1563年までは、ずっとふたケタの数字が続くのだ。
さて紀伊の人間であるが、この時期の倭寇にバリバリ参加していたようだ。1555年に中国沿岸部を暴れまわった、陳東率いる船団に参加している他、1556年の葉明を長とした船団にも、参加していたことが分かっている。メインは紀之港を拠点とする雑賀の人間だったろうが、根来と重複する人間も多かったので、その繋がりで根来行人が参加していた例もあったのではないだろうか。
陳東は中国側の記録によると「薩摩の領主の弟(貴久の弟、尚久のことか?)の下で、書記を務めた」という人物であるが、日本側の記録に該当する者はいない。おそらくは中国人だったと思われるが、何らかの形で薩摩と太いパイプがあったらしく、彼の船団に薩摩人が多く参加していたのは間違いないようだ。
ちなみに日本初の洗礼を受けたキリスト教徒であり、ザビエルの通訳兼案内者として有名な「アンジロー」も薩摩出身の元密貿易商人であったが、ザビエルと別れた後は倭寇として活動していた、とある。もしかしたらこの船団に乗っていたかもしれない。
陳東の船団は、1555年の正月に出航、浙江省を中心に各地を荒らしまわった後、3月に一旦、日本に帰っている。中には故郷に財貨を持って帰れた、幸運な略奪者もいたことだろう。拙著の2巻において院俊が「倭寇に誘われて、行人たちが多く参加した」と語っているシーンがあるが、それはこの55年の3月に帰ってきた略奪船団のことを指している。陳東の船団は翌56年に再び出航しているが、この時は同じ倭寇仲間であった徐海に裏切られ、彼自身は官憲に捕まってしまい、部下もその殆どが壊滅している。
次に葉明だが、彼は「驍勇剽悍、諸酋の冠明たり」と称されるほどの人物であったようだ。1556年正月に出航した彼の船団は、各地を荒らしまわるも、やはり最後は徐海によって裏切られ、捕らわれている。
このような略奪行に参加した根来行人たちは、ある程度いたと思われるが、故郷に錦を飾って帰れた者は、どれほどいただろうか。南京の例の通り、欲の皮を突っ張らかして途中下車できずに、最期まで参加して大陸の露と消えた者どもが殆どだった、と思われる。
先述したアンジローも、フロイスの「日本史」の中で、その最期について「海賊の一船に身を投じ、中国で死亡」と簡潔に記されている。(続く)