アジアにおける奴隷貿易は、如何ほど儲かったのだろうか?1609年に人さらいに騙されて、マカオで船に乗せられ、マニラにて売りに出された中国人の少年少女たちの史料が残っている。それによると、誘拐犯からの仕入れ値は1人につき10パルダオ、マニラにおける販売価格は120~130パルダオ、とある。12倍から13倍で売れたということなので、相当儲かる商売だったのだろう。
ただポルトガル人によるこれらの奴隷の扱いは、そう酷いものばかりではなかったらしい。例えばアジアにおけるポルトガル人の根拠地・マカオの港湾機能は、日本人に限らずこれら奴隷たちの労働によって支えられていたのだが、賃金の50%は本人のものになったようである。財産を貯めて自分で自分を買い取れば、いずれ自由になれたのだ。元奴隷だったが自由になれた日本人の名が、記録に数多く残っている。
その中の一人に、ペドロ・ルイス・ジャポンという名の元奴隷の日本人がいる。(ちなみにポルトガル人に買われた奴隷は、皆すべからく洗礼を受けさせられキリスト教徒になっている。買主は購入から半年以内に、異教徒を改宗させる義務があったようだ。なのでポルトガル風に改名しているのだ。)彼は貯めたお金でわが身の自由を買い取った後も、引き続きマカオで港湾作業に従事していたようだ。1590年に、ポルトガルから入港した船にロープをかける作業などを行って、24ペソを稼いでいる記録が、その船の商業日誌に残っている。なかなかのやり手だったらしい彼は、単なる肉体労働者ではなく、必要に応じて賃金奴隷を雇う請負業者でもあったらしい。アフリカ人、ベンガル人、そして同じ日本人の奴隷を雇って、船の補修に必要な木材を調達していたことが分かっている。
人のいいポルトガル人の元で働いていた家庭内奴隷などは、主人の死と共に自由になれる者もいたようだ。恩給まで受取っている者もいる。1562年に日本で生まれ、1583年21歳の時、奴隷としてマカオにやってきたマリア・ペレスという日本人女性は、主人の遺言で奴隷身分から解放された後は、職業的召使としてマカオの商人宅を転々とした、と伝えられている。更に運のいい者は、養子同然に育てられ、遺産を相続したものまでいるのだ。
もちろんこうした美談は、人の好い主人と、性根のいい奴隷との間でのみ成立したことであって、酷い主人による虐待行為なども多かったろう。実際、夫が気に入っていた日本人女性奴隷に嫉妬したポルトガル人女性が、その奴隷を壮絶な拷問にかけた末、殺害した話も残っている。
隙さえあれば、逃げ出す奴隷もいた。わが身を奴隷として売る日本人奴隷もいたが、自らを売った代金を懐に入れ、マカオに着いた途端に中国領に逃亡する、そのような事例が相次いだらしい。そういうのは大抵、罪を犯して故郷にいられなくなり、逃げてきたような筋の悪い輩だ。犯罪者に金を渡して、タダでマカオに連れてきた挙句に野に放ったようなもので、色々な意味で大損である。
奴隷も人間だから、まともな人もいれば、どうしようもない怠け者の人間や、反抗的な人間などもいたことだろう。こうした「素直でない」奴隷たちを利用して、ポルトガル人がスペイン人に行った、とある嫌がらせを紹介しよう。
商売上のことで諍いが生じたので、ポルトガル人らはスペイン人の町であったマニラに対して、復讐することにした。彼らはアルコール依存症や窃盗癖のある者、元強盗犯などの「選りすぐりの」奴隷たちを集めてマニラに送り付けたのである。この中には日本人もいたらしいのだが、マニラ市内で売りに出されたこれら札付きの悪党どもは、市内を数か月に渡って大混乱に陥れた、と伝えられている。想像しただけで笑ってしまう、まるで映画化できそうな話だ。
ちなみにマカオにおける奴隷数は、約5000人と伝えられているが、その殆どは黒人であったそうだ。マカオに限らず、世界各地に散った日本奴隷は、果たしてどのくらいの数がいたのだろうか?正式な数をカウントすることはできないが、数百ではきかず、おそらく数千~という単位にはなったのではなかろうか。
1582年に「天正遣欧使節団」がヨーロッパに向かう途中、東南アジア各地で奴隷となって使役されている日本人たちを見ている。少年使節たちは同胞を売る奴隷商人たちに、激しい怒りや悲しみを覚えた、と述べている。(続く)