叡山にしてみれば「強訴の尖兵」という暴力装置として、大変に利用価値があった馬借たちであったが、しかし彼らは必ずしも山門に絶対的に忠実な存在だったわけではない。「命令されたから暴れる」わけではなく、彼らなりの「暴れる理由」があり、その要求を通すためにも「馬借蜂起」したのであった。
今回の記事では、馬借たちの持つそうした「行動原理」がよく分かる事例を紹介したいと思う。
まず今更だが、比叡山延暦寺について。比叡山には「延暦寺」という名の寺院は存在しない。比叡山にある、多数の寺院の連合体を称して「延暦寺」と呼ぶのである。その最盛期には、境内である「三塔十六谷」の中に3000とも称される寺院が存在した。そしてこれらの寺院は、それぞれが持つ権益をめぐってよく争っていた。この辺りは紀州・根来寺も同じであった――というよりも、高野山も園城寺も同じで、要するに中世の寺院はみなこんな感じなのである。
ただ根来寺の場合は少し特殊で、子院間の権力争いはたまに合戦に近い「出入り」にまで発展することがあった。境内で得物を持って、集団で実際に戦うのである。甲冑を着込み、弓矢まで持ち出す「出入り」では、もちろん死者も出た。根来寺境内において1555年に発生した「山分けの出入り」に関しては、こちらの記事を参照。
この寺内の権力抗争において、更に話をややこしくしたのが、叡山における「山門使節」という存在である。これは第3代将軍・足利義満が定めた制度で、「山徒」という妻帯した僧の中から有力者を抜擢し、幕府と叡山の仲立ちを行う窓口とするものである。叡山から幕府に対し何かしら申し入れをする際には、この山門使節を通して行う必要があった。
実のところ、この山門使節は叡山の中にあって極めて幕府寄りの組織であった。幕府はこれら利に聡い衆徒たちをうまく取り込み、統制下に置いたのである。これは叡山の力を削ぐ、うまいやり方であった。
そしてこの山門使節は特に山内の他の寺院とは、よくトラブルを起こしがちであった。幕府の力をバックに、他寺院の権益を侵食する傾向にあったからである。この山門使節を構成する有力寺院のひとつに「円明坊」があった。そしてこの円明坊は、近江各地に関所を設ける権利を持っていたのである。
陸運を生業とする馬借らにとって、通行するたびに関税を徴収される関所の存在は、最も憎むべき存在であった。どうやらこの円命坊は、大津の北にある堅田にも関所を持っていたらしい。そしてこの堅田の関所を原因とする、米の売買に絡む何らかのトラブルが発生したのである。1418年6月、関所を強引に突破しようとした馬借らと関の番人らが激突、これを契機に坂本の馬借は「馬借蜂起」し、円命坊の宿舎があった祇園社に乱入したのであった。
この1418年の「馬借蜂起」に関しては、ほぼ同じタイミングで叡山が山門訴訟を起こしていたことが分かっている。どうも近江国河毛郷における水利の訴訟沙汰だったようだ。また祇園社に神輿を入れる「神輿振り」もしているので、これはまさしく過去記事で紹介した通り「強訴の一環として馬借を暴れさせる」パターンであり、また以上のことから、馬借には馬借なりの別の理由があって蜂起したことがわかるのだ。
叡山における「反幕府派」寺院らと共に、二人三脚で幕府にプレッシャーを与えるため、祇園社に立てこもった馬借どもであったが、この時の人数がなんと「数千」とある。坂本・大津だけではなく、利害を共にする近場の馬借たちの合力があったとしても、多すぎるのだ。誇張された数字であるのは勿論だろうが、むしろこれは関係ない人々が騒ぎに乗じて集まってきた、ということを意味するのではないだろうか?
いずれにせよ彼らは、祇園執行(祇園社の実務を執り行う機関)に乱入、近所の無関係の家屋まで手当たり次第に破却し、更には壊した家屋の廃材を薪とし、盛大な篝火をあげ「言うことを聞かねば、このまま祇園社に放火するぞ」と脅迫したのである。
慌てた幕府は侍所から兵馬を出してこれと対峙させたが、この時は結局、公方から「御教書」が馬借に与えられたので、とりあえず合戦は回避された、と記録にある。この「御教書」の内容は伝わっていないので詳細が分からないのだが、幕府が何かしらの譲歩をしたと考えられている。だが境内は相当に荒らされたようで、祇園社にあった各種の文書がこの時に相当紛失してしまった(燃やされた?)、と当時の記録に記されている。
それにしても宿舎のみならず、近隣の家屋の破棄、というのは流石にやりすぎであった。事実、伏見宮貞成がこの事件について記した「看聞日記」において、馬借たちは「悪党」呼ばわりされてしまっているのだ。
「暴力」という装置は、制御が大変に難しいものなのである。実のところ、これは後の騒動を予感させる出来事であった。そしてこの10年後に、同じような馬借の行動が起爆剤となって、「正長の土一揆」が爆発するのであった。(続く)