根来戦記の世界

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中世の運送業者・馬借と車借~その⑧ 車借の二大拠点・鳥羽と白河(上) 白河車借の興隆と衰退

 車借の二大拠点といえば、鳥羽と白河である。細かく見ていけば、小規模な車借拠点は各地にあるのだが、ここまで大規模なのはこの2か所だけだ。鳥羽と白河において、なぜここまで車借が発展したのだろうか?

 そもそも効率的には、馬の背に乗せて物を運ぶよりも、車を使った方がいいに決まっている。馬の背に乗せる場合、運べる荷は1頭につきせいぜい米2俵だが、牛車を使えば米を8俵乗せられるのだ。にも関わらず小荷駄を使わざるを得なかったのは、日本は坂道が多かったからなのだが、好都合なことに鳥羽と白河から洛中へと至る両ルートは、平坦な道が続いていたのである。

 そして何よりも「車借」にできて「馬借」にできないことがあった。それは寺院などの巨大建造物建設のための、建材や庭石の運搬である。

 14世紀初めころに成立した「石山寺縁起絵巻」を見ると、寺の建築現場で牛車が長い材木の運搬を行っている場面がある。こうした重量のある資材の運搬は小荷駄では不可能で、牛車を使うしかなかった。また京には、こうした巨大な建材を使用する寺院がやたら多かったのである。

 

石山寺縁起」より、建設用の材木を運ぶ牛車。このように重量のある建材輸送は、車借の独壇場であった。1436年2月、松梅院にあった庭木4本と庭石1つを足利義教に進上した際、運搬に使用したのも牛車であった。まず庭木1本と庭石を乗せた車を牛6匹・人夫4~50人で、次いで庭木3本を乗せた車を人夫200人で引いたが、あまりの重さに両車とも壊れてしまった、と記録にある。

 

 そういう意味では、鳥羽と白河には共通点がある。それは双方の地に、かつては巨大な伽藍が立ち並んでいたことである。建立されたのは共に平安後期、上皇による院政がピークを迎えていた頃である。

 まず白河にあったのは、法勝寺である。1077年、白河上皇が白河の地に建立した法勝寺は、高さ81メートルの八角九重塔と愛染堂を備えた「国王の氏寺」で、一時は相当な隆盛を誇っていた。この後、五代に渡って歴代天皇がそれぞれの氏寺を建立したので、最終的には6つの氏寺が集う「六勝寺」として、巨大寺院に成長したのである。

 

Wikiより画像転載。京都市平安京創生館所蔵・平安京1/1000模型。鴨川の東・白河の地には、このように巨大な伽藍が立ち並んでいた。画像左下にある巨大な塔が、高さ81メートルの八角九重塔。東から入洛する際には、よく見えたそうである。ちょうど今の京都動物園の観覧車がある場所に建っていた。

 

 鳥羽にあったのは、鳥羽離宮である。絶大な権力を持つ白河上皇はその晩年、鳥羽の地に三重の塔を中心とした「安楽寿院」などがある鳥羽離宮の建設にも着手する。白河上皇亡き後、院政システムの直接の後継者であった鳥羽上皇は、この鳥羽離宮に居を移し政務を見たため、この地は政治・経済・物流の中心地となったのである。鳥羽離宮はさらに拡大を続け、泉殿や本御塔・新御塔など、巨大伽藍の増改築を繰り返すことになる。

 このように双方の地には巨大建築物が立ち並んでいたわけで、個人的な考えを述べると、鳥羽・白河の車借は、こうした伽藍を建立するための資材陸送を契機に成立した組織だったのかもしれない。また白河・六勝寺に関して言えば、数多くの荘園が寄進されたので、荘園からあがってくる数多くの物資の集積所にもなっていたらしい。こうした輸送にも、車借たちは活躍したことだろう。

 しかし六勝寺も鳥羽離宮も、その後の武士の台頭による院政の終了によって、次第に衰退していく。鳥羽の地に関して言えば、引き続き物流の中心であり続けたのだが(詳細は次の記事で述べる)、白河の地はそうならなかった。

 特に六勝寺は「国王の氏寺」という性格を持っていた以上、王権が絶大な権力を握っているという前提あっての繁栄だったわけだから、その凋落ぶりは酷かった。荘園からの年貢も絶え、相次ぐ火災により伽藍のことごとくは失われ、また再建も行われず、筆頭寺院の法勝寺ですら南北朝後期あたりからは天台宗のいち寺院として、細々と存続している有様であった。

 室町期には、叡山の末寺になるくらいまで落ちぶれてしまったらしく、過去の記事で紹介した「麹騒動」の戦後処理の際には、山中越えをした坂本の馬借らを京まで先導したとのことで、法勝寺の執行が処刑されてしまっている。解死人代わりのトカゲの尻尾切りのように、責任を取らされたのではないだろうか。

 いずれにせよ、白河車借が六勝寺建立を契機として成立した集団だとするならば、(日吉社に仕える坂本馬借のように)彼らは六勝寺に仕える神人を母体に発展した集団であったと思われる。六勝寺の凋落と共にまた、白河車借も衰退していくのは避けられない運命であった。

 白河車借の史料はとても少ないので、その多くは推測に頼らざるを得ない。彼らがいなくなってしまった明確な時期も分からないのだが、個人的には室町期にはほぼ存在してなかったのでは?と思っている。

 過去の記事で少し触れたように、中世初期までの白河車借は、東から山を越えてくる坂本馬借の荷を、北白川でわざわざ積み替えて運んでいたではないか?とブログ主は考えている。ただこれはひと手間増えるだけで、作業効率的には全く意味がない行為だったように思える。

 こうした輸送業務が、彼ら神人としての単なる義務であったうちは、それでもよかったかもしれない。だがそれが職能化して、何らかの権利とリンクするようになってくると、話が変わってくる。更に時代が進み、馬借・車借らが米の売買に手を染め始めるようになっていたとしたならば、なおさらである。坂本馬借にしてみれば、利益の最大化を図るためには、何としても京にたどり着く必要があったのである。

 にも関わらず、これを可能としていたのは「北白川→洛中ルート」における陸送業務が、白河車借の独占的な権利として守られていたからであろう。そしてその権利を保障してくれていたのが、彼らが仕える先であった法勝寺をはじめとする六勝寺だったのである。

 だがその肝心の法勝寺が没落して、叡山の末寺になってしまう。1590年には遂に寺そのものが、坂本にある西法寺に吸収合併されてしまう始末である。

 白河車借の消滅は、法勝寺が吸収合併されたよりもっと早いタイミング、おそらくは叡山の末寺となった、室町期辺りではないだろうか。より強大な力を持つ、先輩格の同業他社・坂本馬借に抗することはできず、淘汰されてしまったものと思われる。(続く)