根来戦記の世界

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中世の運送業者・馬借と車借~その③ 土一揆の主力を成した馬借たち

 1603年にイエズス会宣教師らが作成した、日本語をポルトガル語に訳した「日葡(にっぽ)辞書」というものがある。キリスト教を布教するためのツールとして、宣教師らが作成したものだ。

 当時の日本には、もちろん「百科事典」といったものが存在しなかったから、本来ならば当時使用されていた言葉の発音や、正確な使用方法・意味などは、分からないことだらけだったはずなのである。しかしながら、この第一級の史料である「日葡辞書」があるおかげで、中世日本語の音韻体系をはじめ、個々の語の発音・意味・用法、各種名詞やよく使用された語句、生活風俗などを知ることができるのである。

 この「日葡辞書」における「Baxacu(馬借)」の項目をひくと、意味合いが2つ記載されている。まずは「馬子・馬方」。これはいいとして、もうひとつが興味深い。こうあるのだ――「すなわち一揆・暴動。例文・Baxacuga vocoru(馬借が起こる)この暴動が起こる」とあるのだ。

 室町期、1400年代は「土一揆」が多発した時期であった。実のところ当時の記録に、この土一揆のことを「馬借」という言葉で表現しているものがある。これは土一揆と同義語になるくらい、馬借たちが一揆の主力を成していたことを指している。「一揆の成否は馬借による」という言葉まで残されているほどなのだ。近畿一円にいた馬借たちは、殆どこれに参加したようで、坂本の馬借たちもこれに参加していたのが分かっている。

 この記事では、室町期に多発した「土一揆」と、馬借との関係を見ていこうと思う。そのためには、まず「土一揆」というものを理解しなければいけない。一体「土一揆」とは、何であろうか。

 鎌倉後期から室町期前期にかけての京の経済圏は、比叡山が完全に仕切っており、これを「山門経済」と呼んだ。例えば南北朝期、京に数多ある土倉―――要するに銭貸しらは叡山の資本によるものが多く、在京335軒の土倉のうち、約7割の280軒が「山門気風の土倉」であったという。

 簡単に言うと、これら土倉から銭を借りて、首が回らなくなった人たちが「土一揆」の主体であった。15世紀という時代は、どうも地球全体が温暖期から小氷期に入るタイミングだったようで、北半球全体で天候不順により農作物が不作になる時期が長く続き、それに伴う動乱が世界各地で起きている。日本においても例外ではなく、全国で飢饉が発生、それがトリガーとなって「土一揆」が発生したのであった。

 武装した彼らは、徳政(要するに借銭免除)を求め、京に攻め込んだのである。その攻撃目標は主に土倉だったわけであるが、実のところ幕府にとっては、京にある土倉・酒屋らは財政を支える重要な収入源であった。彼らが幕府に上納する運上金は、年額6000貫にも達していたのである。土倉が襲われたら、幕府としてもあがったりだから、何とかしてこれを守らなければいけない。しかし一揆の鎮圧は大抵はうまくいかず、最終的には徳政を出さざるを得なくなってしまうパターンが殆どであった。何故であろうか。理由は幾つかある。

 ひと昔までは「土一揆」の「土」とは百姓のことを指し、その主体は村落共同体であった――というのが、史学界の理解であった。しかし研究が進んだ結果、そうした一面的な解釈は間違いであったことが分かってきている。

 一揆の主体として「百姓」を規定するのは間違いではないのだが、そもそも室町期は武士と百姓の区別は極めて緩く、江戸期どころか戦国期の比にすらならないほどである。例えば、当時の守護が国内の武士を配下に組み入れる際には、「郡単位で丸ごと被官化し、侍名字を与える」という大雑把なやり方であったから、百姓であると同時に武士、という身分の者が極めて多かったのである。

 そんなわけで当時の記録には、一揆に守護の被官が数多く参加していたことを伝えているものが多い。一揆の標的となった土倉らは、彼らによる略奪を恐れ、当時の管領細川持之に対し賄賂1000貫(!)を送り鎮圧を要求している。持之は喜び勇んでこれを受け取っただろうが、守護の協力を得られず軍を動員できなかったため、せっかく請け取った賄賂を泣く泣く全額、土倉に返している。

 守護は守護で、自らの被官の多くが一揆に参加している以上、実力行使に出ることができなかったのである。これが土一揆を鎮圧できなかった、大きな理由のひとつであった。

 また一揆勢の戦略の巧みさもある。規模の点で双璧を成す「土一揆」は、1428年の「正長の土一揆」と、41年の「嘉吉の土一揆」であるが、いずれも一揆発生時に幕府主力が在京しておらず、守りが手薄であったところを狙っている。「正長の土一揆」は、南伊勢の北畠を討伐するため、南伊勢に幕府軍が攻め入ったタイミングで蜂起している。同じく「嘉吉の土一揆」は、播磨の赤松討伐のために、幕府軍が遠征したタイミングで発生したのである。

 いずれにせよ土一揆の攻撃目標は、比叡山の影響下にある土倉がメインであった。しかし前記事で紹介したように、坂本の馬借は比叡山の指揮下にある集団である。強訴の際は、叡山の尖兵として暴れたりしているのだ。それなのになぜ坂本の馬借たちは、叡山の敵ともいえる土一揆に参加したのだろうか?(続く)

 

「柳生の徳政碑文」。大和は柳生の里にある、「正長の土一揆」に関する有名な碑文である。「正長元年以前の、神戸四カ郷についての借金は帳消し」という旨の内容が刻まれている。当時、この地は興福寺の荘園であった。住民が銭を借りる先も同じであったはずだから、興福寺が受けた経済的打撃は大きかったはずだ。興福寺大乗院の門跡・尋尊は「大乗院日記目録」において、「凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」と怒りを込めて記している。