根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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中世の運送業者・馬借と車借~その② 坂本の馬借 その前身は「馬の衆」か

 馬借に関する直接的な史料が残っているのは、前記事で述べた「浦・山内馬借」に関するものであるが、「存在感の有無」という形で最も有名なのは、やはり「坂本の馬借」である。

 坂本そして大津の町は琵琶湖畔にあり、湖運を通じて多くの物資がこの港町に集まってくる。ここから京に至るルートは、東からの物流の大動脈であったのであり、その陸運の主力を担っていたのが「坂本・大津の馬借」だったのである。

 「坂本の馬借」は京に近く、また比叡山に属する存在であったために、各種の史料に横断してよく名前が出てくる――のだが、史料そのものは断片的で、量もそんなに多くはない。坂本の馬借に関する史料はもっと残っていてもおかしくないのだが、残念ながら1571年の信長による「比叡山焼き打ち」によって、その多くは焼けてしまったものと見られている。

 

Wikiより一部転載「山門三塔坂本惣絵図」より。18世紀半ばに描かれた古地図であるが、坂本の町は「比叡山焼き打ち」によって1回全焼してしまっているから、戦国期の姿を伝えるものではない。中世の坂本は、日吉社門前町である「六箇条」、そして港町である「三津浜」の2つの街区で構成されていた。それぞれ「上坂本」と「下坂本」の前身である。三津浜には湖上回漕路の「関」が設けられ、その勧過料(かんかりょう)は延暦寺の重要な収入源のひとつであった。この町は15世紀後半より目覚ましい発展を遂げるが、それは「応仁の乱」を避け、多くの京人が疎開してきたからであった。特に大資本家である酒屋・土倉までもが坂本に逃れてきており、「六箇条」の中心地である、井神・八条といったメインストリートに居を移していたのが確認できる。あの山科言継の父、山科言国も1470年10月に避難してきており、乱が落ち着くまでの8年間、京と坂本の間を行き来していた。「言国卿記」そして「山科家礼記」によると、当時の下京に2軒しかなかった風呂屋が、坂本には少なくとも3軒あったそうである。また1501年の大火の際には、3000軒もの家屋が焼けた、ともあるから、戦国期の坂本が、如何に栄えていたかが分かる。

 寺社は史料の宝庫であり、特に叡山は京に近いこともあって、他にも数多くの中世史料があったのは間違いなく、「あれがなければ・・」と悔しがる中世史研究者は多いのである。そうした人々にとってみれば、信長はまさしく第六天魔王なのであった。

 ・・話を戻そう。下坂守氏の著作「中世寺院社会と民衆」によると、坂本の馬借は、元は坂本にある「日吉社」に属していた神人だったのではないか、とある。神仏習合が進んだ結果、日吉社は平安中期ころから早くも叡山と一体化していた。

 この日吉社に、鎌倉期に成立した「耀天記」という社記が伝わっている。日吉社の祭礼に関する記録を記したこの書に、「馬の衆」という集団が出てくるのだ。それによると、毎年4月に行われる日吉祭において、彼らは「御輿馬ノ祝」という神事で「神馬の口取り」をする役割を果たしていた。また同じく、正月17日に開催される「大結鎮」と呼ばれた神事においても、「矢を射て吉兆を占う」という重要な役割を務めていたことが分かっている。

 そしてこの「馬の衆」こそが「坂本馬借」の前身だったのではないか、と下坂氏は推測しているのだ。

 この坂本馬借であるが、彼らは各地で暴れまくる存在としても有名であった。記録を紐解くと、室町期に入って幕府が落ち着いた頃の1400年代ころから、京近郊において何回も「馬借蜂起」している。なぜ彼らは暴れるのかというと、特に初期においては「比叡山延暦寺の先兵」として蜂起しているパターンが多いのである。

 平安期末期から室町期にかけて、叡山は「神輿振り」という名の強訴を、朝廷や幕府に対して行っていた。これは神社の神輿を京まで運んで、政務を見る者のもとに置いてくる一種のストライキというか、嫌がらせである。

 

神輿を振る際は、数多くの神人たちがその横について、これを阻止せんとする者どもに対し投石攻撃を行った。強訴と印地の関係性についてはこちらを参照。

 

 この強訴だが、特に当初は効果てきめんであった。1095年に行われた、記録上最初の「神輿振り」においては、この日吉社に属する八王子社のものが使用されている。

 これは美濃国において叡山の僧が殺害されたことから、実行犯の処罰を求めた「申状」を渡そうとした叡山の衆徒に対し、時の関白・藤原師通が軍兵に矢を射かけさせて、数人を負傷させたことから始まっている。

 神意を恐れぬ行為に怒った衆徒たちは、八王子社の神輿を根本中堂に祭り上げ、師通を呪詛したのである。するとその4年後に師通は悪瘡を患い、38歳で死亡してしまったのである。(呪いが効くまでに、大分時間差があるように思えるが)叡山は「これこそ、まさしく天罰である」と喧伝し、当時の人々もそれを信じたのであった。

 そんなわけで以降、朝廷側は祟りを恐れ、強訴の要求に屈することが多かったのだが、時代が下るにつれ効果が薄れてくる。初回にたまたまうまくいったように、必ずしも神罰が明確に表れるとは限らないのだ。そうした例が続くにつれ「もしかして無視しても、罰なんて当たらねんじゃね?」ということがバレてくるわけである。

 そうなると神輿を供捧する衆徒らに対し、攻撃を加える輩が出てくる。衆徒らはこうした罰当たりどもから、わが身の安全を確保する必要がでてきたのである。どうしよう・・・そうだ!馬借たちに先だって暴れてもらおう!そうすればこちらに手が回らないじゃん!というわけで、叡山が強訴する際、馬借たちをまず先に動かして暴れさす、というパターンが確立するのであった。

 前述した通り、馬借たちの前身が「馬の衆」という日吉社に仕える神人たちであったとするならば、強訴の先兵としては確かに相応しかったといえる。(続く)