根来戦記の世界

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中世の運送業者・馬借と車借~その① 運送業から商人へ

 日本の陸上運送の主力は、江戸時代までは馬である。地形が険しく道の狭い日本においては、馬の背に荷物を括りつけて運ぶ、小荷駄が発達した。中世において、このように馬を使って荷を運ぶ運送業者のことを「馬借」という。

 馬借・車借という職能の設立はそこまで古いものではなく、大体において鎌倉期の末頃だとみられている。彼らは地方にある荘園の余剰物資等を、運送する目的によって発達した職能民なのである。ただし一大消費都市であり、経済先進地帯であった京においては、早くも平安末期に馬借・車借の記載が見られる。

 1057年頃に成立したと思われる「新猿楽記」という物語がある。これはフィクションではあるが、下級貴族の実態を伝えているものとして、史料的価値はそれなりにある物語だ。

 この物語に西京に住む「右衛門慰の七女」という女性が登場する。彼女は大変な美人であったのだが、「貪飯愛酒の女なり」と称されるほど、贅沢が大好きな女性でもあった。そんな彼女が嫁入り先にと望んだのが「馬借・車借の妻」なのである。

 物語では、そうした運送業経営者の代表として、津守持行という男の姿が描かれている。それによると彼の縄張りは「東は大津・三津、西は淀・山﨑とし、牛車が疲れたり傷ついたりしても1日も休まない、猛烈な働き者である」とある。また「人手が足りないことを気にしている」とあるから、自らも働くが複数の使役者を持つ経営者であることも分かる。そんな彼は、下級貴族出身の贅沢好きな美女が、自ら嫁入りしたいと望むほど稼ぎのある男であったのだ。

 ちなみに物語文の最後に「一族はこの七女と夫のことを、恥に思っている」とあるから、やはりこれは身分を越えた婚姻であり、下級貴族と車借・馬借との婚姻が稀有なものであったことが分かる。こうした結びつきは、あり得たとしても、歓迎されない話だったのだろう。

 

石山寺縁起」より。馬の背に荷を括り付けて運ぶ。車を使って曳いたほうが、数倍は効率が良かったはずだが、やはり勾配がネックであった。馬車での運送がメインであったヨーロッパと比べると、とにかく日本は坂が多い。特に中世までの日本において米を京に運ぶ際には、山地が多く陸送を多用せざるを得ない東国からよりも、舟が使えて水運ができる西国からの輸送の方が安くついた。東国からの荷は、米などの生活必需品よりも高級品が多かったようだ。江戸期になると米の輸送ルートが整備され、北日本からの米が大量に大阪へと運ばれるようになる。

 彼は架空の男ではあるが、モデルとなるべき存在はいたと思われる。なので平安末期には、既にこうした豊かな運送業者が登場していたということが分かるのである。

 ただこの時代は、まだ商品流通経済というものがそこまで発達していなかったようで、彼はあくまでも運送業者でしかなく、商品そのものを売買するところまでは至っていなかったようだ。だが時代が下るにつれ、商取引そのものにも進出してくるようになるのである。

 馬借に関する史料で最も有名なのは、越前国の今泉浦で村役人を務めていた西野家に伝わる「西野次郎兵衛家文書」、通称「西野文書」である。これは1465年から近代に至るまで、(数え方にもよるが)300点にも及ぶ貴重な史料群である。

 海上交通の拠点であった今泉浦は、府中より通じる西街道の終着点に位置していた。そして今泉浦と府中を結ぶ道筋には、多くの馬借が居住していて陸上輸送に携わっていた。そうした関係で、西野文書には馬借に関わる各種史料が多く含まれているのだ。これらの文書から、今泉浦から府中に至るまでの馬借集団は2つの集団に分けられ、それぞれ「浦馬借」と「山内馬借」と呼んでいたことが分かっている。

 1497年にこの今泉浦で、とある商人が塩・榑を買い付けた事件がおきている。ただ買い付けただけの出来事を事件と称したのは、この買い付けが両馬借の権益を侵す取引だったからなのだ。

 これについて両馬借は、この地域を管轄する朝倉氏の奉行人に提訴したが、買い付けた商人は、よりにもよって奉行人その人から手に入れた「判紙」を所持していたらしく、特例として運送が容認されたようである。しかしながら原則はあくまでも、浦と山内の両馬借たちが塩・榑の独占的な運送・販売権をも持つとして、裁許状ではこの点が再確認されている。

 このように浦・山内馬借らは、単なる運送業に従事していただけではなく、塩などの商品を売り買いしていたことが分かるのである。また他の史料から、彼らは船人への仲買の役割を果たしていたことも分かっている。(続く)