洛中洛外における検断権、地子銭などの納税拒否、そして遂には京周辺の村落の代官請の要求など、未だかつてないほど高まった、町衆らによる京の自治権。だが注意しておきたいのは、日蓮宗(法華宗)を核としたこの「衆会の衆」を、地縁を元とした「京の町衆」とを同一視してよいのか、という問題である。
過去の記事で、共同体の例として、①「宗教」②「座」③「村落共同体」などがあると述べたが、こうした共同体は必ずしも単独の要素のみで存在するわけではない。複数の要素が錯綜して、入り組んだ関係となっているのが殆どである。
例えば商業都市である堺は、①は主に「日蓮宗」、②の商業的組織である「会合衆」と、③の村落共同体組織である「南荘」「北荘」、これら3つの要素が混ざって構成されていた。これらの共同体によって、どのようなバランスで自治が成されていたかは論争が続いているが、少なくとも戦国後期の堺においては、②の豪商らで構成される「会合衆」の持つ、商業的な組織の影響力が強く、主導権を持っていたものと見られている。(これについては、また後の記事で言及する。)
次に新義真言宗の総本山・根来寺のケースを見てみよう。ここは一見、①の「真言宗」を主とした宗教的な共同体のように思えるが、過去の記事で紹介したように、実態としては③の泉南・紀州・雑賀らに住まう、地侍たちの連合体の性格が強かった。隣に位置する雑賀は雑賀で、1つの庄と4つの郷から成る③の村落共同体であったが、①の宗教的影響力の観点から見ると、浄土真宗・本願寺の要素が強く入ってきていた。特に戦国後期においては、雑賀の門徒らが有する徹砲隊は、本願寺が最も頼りにする兵力であった。
本願寺のために戦った、雑賀衆・鉄砲隊の奮闘ぶりはこちらの記事を参照。
京はどうであったかというと、この時点での京における「衆会の衆」による自治は、①の宗教的な繋がりによる要素の方が強かったといえる。なぜそれが分かるかというと実は「町組」や「月行事」など、はっきりとした自治行為が確認できる言葉が文献上で現れるのが、この「衆会の衆」成立以降のことなのである。
どうも京の自治においては、法華宗徒たちによる①の「宗教を基盤とした自治」が先行して行われたことによって、この後の町衆たちによる③「地縁を基盤とした自治」への道に繋がっていった、という流れのようである。
いずれにせよ京に住む人々による自治権が、この時期に最高潮に達したことは間違いないのである。(続く)