根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

戦国時代の京都について~その⑩ 天文法華の乱・宗教的な自治組織「衆会(しゅうえ)の衆」

 洛中洛外における検断権、地子銭などの納税拒否、そして遂には京周辺の村落の代官請の要求など、未だかつてないほど高まった、町衆らによる京の自治権。だが注意しておきたいのは、日蓮宗法華宗)を核としたこの「衆会の衆」を、地縁を元とした「京の町衆」とを同一視してよいのか、という問題である。

 過去の記事で、共同体の例として、①「宗教」②「座」③「村落共同体」などがあると述べたが、こうした共同体は必ずしも単独の要素のみで存在するわけではない。複数の要素が錯綜して、入り組んだ関係となっているのが殆どである。

 例えば商業都市である堺は、①は主に「日蓮宗」、②の商業的組織である「会合衆」と、③の村落共同体組織である「南荘」「北荘」、これら3つの要素が混ざって構成されていた。これらの共同体によって、どのようなバランスで自治が成されていたかは論争が続いているが、少なくとも戦国後期の堺においては、②の豪商らで構成される「会合衆」の持つ、商業的な組織の影響力が強く、主導権を持っていたものと見られている。(これについては、また後の記事で言及する。)

 次に新義真言宗の総本山・根来寺のケースを見てみよう。ここは一見、①の「真言宗」を主とした宗教的な共同体のように思えるが、過去の記事で紹介したように、実態としては③の泉南紀州・雑賀らに住まう、地侍たちの連合体の性格が強かった。隣に位置する雑賀は雑賀で、1つの庄と4つの郷から成る③の村落共同体であったが、①の宗教的影響力の観点から見ると、浄土真宗本願寺の要素が強く入ってきていた。特に戦国後期においては、雑賀の門徒らが有する徹砲隊は、本願寺が最も頼りにする兵力であった。

 

本願寺のために戦った、雑賀衆・鉄砲隊の奮闘ぶりはこちらの記事を参照。

 

 

根来と雑賀を中心にみた共同体関連図。丸い青色が①の信仰で結びついた宗教的共同体、四角い黄色が③の地域で結びついた村落共同体を表す。円の大きさは、時期によって伸び縮みするのに注意。要素をかなり減らして単純化してあるが、それでも関係性が錯綜しているのが分かる。例えば雑賀は一向宗の力が強い地域であったが、根来に進出して子院を構えている一族もあった。図で示したところの、雑賀と根来の両村落共同体を横断して存在している「湯橋家」がそれである。過去の記事でも言及したが、湯橋家当主は代々神主を兼ねる家柄でありながら、新義真言宗の本山である根来に「威徳院」という子院を持っていた。更に屋敷には13世紀にあの蓮如が滞在したことがあり、敷地内に一向宗の庵があったという、宗教的にも複数の共同体に属していた家であった。最も近代以前の日本は神仏習合が盛んであったから、神道と仏教との親和性は高かった――というより、ほぼ同一視されていた。例えばこの図における紀州にある神道共同体は、主に熊野権現のことを表しているのだが、その主祭神神道でいうとケツミコミカミであり、本地仏としては阿弥陀仏如来であった。湯橋家のこうした緩い宗教的スタンスも、当時の価値観からすると珍しくなかったのかもしれない。考えてみれば現代に生きる我々の多くの宗教観も、同程度の緩さのスタンスである。

 

 京はどうであったかというと、この時点での京における「衆会の衆」による自治は、①の宗教的な繋がりによる要素の方が強かったといえる。なぜそれが分かるかというと実は「町組」や「月行事」など、はっきりとした自治行為が確認できる言葉が文献上で現れるのが、この「衆会の衆」成立以降のことなのである。

 どうも京の自治においては、法華宗徒たちによる①の「宗教を基盤とした自治」が先行して行われたことによって、この後の町衆たちによる③「地縁を基盤とした自治」への道に繋がっていった、という流れのようである。

 いずれにせよ京に住む人々による自治権が、この時期に最高潮に達したことは間違いないのである。(続く)