※このシリーズを読む前に、下記のシリーズに目を通すのをお勧めします。
なぜ根来寺は秀吉に負けたのだろうか?何とかして、体制を維持したまま生き延びる道はなかったのだろうか?このシリーズ番外編では、日本中世社会が持つ、独特の社会構造について考察してみたいと思う。
まず根来寺滅亡について、学侶僧らはどう考えていたのだろうか?根来寺に日誉という学侶僧がいた。20歳戦後で根来寺に入り、そこで修行を積んでいる。根来滅亡直前に高野山に避難し、命永らえた後は京都の智積院に行き、最終的には能化三世となった傑物である。中世根来寺滅亡後、新義真言宗の中興の祖とも称えられた、極めて学識のある人物であった。
彼は晩年に「根来破滅因縁」という書物を記している。その書物の中で彼は、根来寺の破滅の因は寺自体にあったと言い切っている。二つの因により院坊堂舎が焼かれ、一山離散という破局を招いたのだ、と説いているのだ。この彼が言うところの「二つの因」とは何か。
一つ目。まずは行人衆の武力による悪行が度重なって生じた、というもの。中世の根来寺は行人方の子院が大きな権力を握っていて、少なくとも寺の対外方針については、行人方四院がその方向性を決めていたのは、過去の記事で紹介した通り。要するにこうした行人方の対外膨張政策が、中央政権の利害と衝突した、というものである。
二つ目。学侶僧の能化職をめぐる対立である。根来の学侶僧には常住方と客僧方、二つの派閥があって、それぞれが学侶僧のトップの座である能化職に就かんと、政治的な争いを繰り広げていた。戦国末期には、山内を二分する紛争に発展し、山内の仏事も絶えるほどであったらしい。
この日誉が残した書物によってまた、行人僧間だけでなく、学侶僧間にも激しい派閥争いがあったことが分かるのである。根来寺はその境内において幾つもの集団があり、それらの微妙なパワーバランスの上で成立していた組織であった、ということだ。しかもそうした集団の構成員は、同時に複数の集団に所属しているという重層的なもので、その時々で発生するトラブルの種類によって立ち位置を目まぐるしく変えるという、複雑極まりない関係性にあったのである。
さて本郷和人氏の書作「武士とは何か――中世の王権を読み解く」によると、日本中世の社会構造を図にして表すと、下記のように表現できるという。
こうした「多対多」の複数の関係性で結びついたネットワーク構造を「リゾーム構造」、または「散りがかり構造」と呼ぶ。これが日本中世の典型的な社会構造なのだ。
さて過去の記事で、根来寺行人方子院の複雑な関係性について触れたことがある。
リンク先の図を見ていただければ分かるが、系列ごとの主従的なタテの関係性と、共同体ごとの同志的なヨコの関係性が錯綜していることが分かる。この図を本郷氏が述べるところの、「リゾーム構造」的な関係性に置き換えて考えることもできるだろう。根来寺もまた、典型的な中世的構造を持つ組織だったことが分かる。
こうした複雑怪奇な組織形態、リゾーム構造に対して、信長以降の近世的性格を持つ戦国大名の組織形態はいたってシンプルなものであった。いわゆるツリー構造である。
日本全国をこうしたツリー構造の下に、一元的に再編成し中央集権化をしようとしていたのが織田家であり、またその後継者である豊臣家である。このツリー構造の中に、異なる体制であるリゾーム的な組織の存続など、決して許されないことであった。典型的な中世的組織であった根来寺との対立は、避けられないことであったといえる。
そしてリゾーム構造の組織は、指揮系統が一本化されているツリー構造の組織には、決して勝てないのである。リゾーム的組織は、複雑なパワーバランスの上に成り立っている組織なので、何か事を成そうとしても、組織本来が持つ潜在エネルギーを発揮することができない、エネルギー効率が極めて悪い組織なのである。
リゾーム構造色の強い会社で働くことを想像してみよう。仕事を進めるのに、えらく苦戦しそうなことは分かると思う。各部署ごとに強固な縄張りがあるわけだから、部署間の調整をするのに如何にも労力と時間が掛かりそうだ。(今の日本にも、こうしたゾンビ企業がありそうである。競争のない特殊な免許事業に守られた会社や、お役所などでも見られる光景かもしれない。)一方、ツリー構造の会社だと、トップダウンで指揮系統がはっきりしているので、話が早い。無意味な労力が発生しないのである。
勿論ツリー構造にも欠点はある。上に立つ人間の資質によって、組織の質が大きく左右されてしまうので、トップが優れた人物の時はいいのだが、ダメな人物がなってしまうと、悲劇が起きてしまうである。
義元亡き後、今川家が滅んだ理由がそれである。氏真は全くもって組織のリーダーに向いていない人物で、そうした人物がツリー構造のトップになると、その組織はガタガタになってしまう――無能は罪なのである。
対するに、信長は非常に優れたリーダーであった。しかし別の意味で問題のあるリーダーでもあった。織田家は信長のブラック気質の故に滅んだ、といっても過言ではないだろう。
また、ひとつの主を頂点とするツリー構造を持つ武士は、家名を守るために命をかけることができた。例え己が死んでも、跡継ぎが家を保てばよし、とする価値観のもと彼らは行動する。それを担保するのがツリーの頂点にいる主家であった。トップの保証があるから、一族繁栄のために時には命を捨ててまで戦うのだ。戦国も晩期に入ると、そうした近世的な武士の価値観が広く浸透してきた時期だったから、そういう意味でも効率よく彼らは戦った。
だが根来衆はそうではない。中世のモットーは「自力救済」である。自らを守るのは自分だけである。何かあったら、一応は属する組織が後ろ盾となってはくれるはずなのだが、武士特有の倫理観に裏打ちされたものほど、確固たるものではなかった。自分の財産は自分で守るしかない。そうなると、一番大事なのは結局は自分の命、ということになる。
小牧の役の最中に、根来衆が大軍を動員し岸和田から大阪にかけて侵攻していながらも、中途半端な戦果しかあげることができなかったのも、上記の理由で説明できる。特に城攻めなど、己の命を危険に晒してまで行う行為は、彼らが最も不得手とするものであった。武士と違って先駆けしたところで、リスクに見合うメリットなどなかったから、誰もやりたがらなかったのだ。またそうした経験に乏しかったから、城攻めのノウハウなども持っていなかっただろう。
近木川防衛ラインがあっけなく崩壊してしまったのも、これが理由だ。もう勝ち目がないと分かると、城を自ずから焼いて逃げ去るか、降伏開城してしまった。一族の名と財産を守るためなら、己の死をも厭わぬ武士と違って、彼らには「財産を守るためには、とにかく今を生き抜く」という選択肢しかとれなかったのである。
最後にもうひとつ。真言宗は学問としては優れていたが、宗教としては信仰色が薄い?宗派でもあった。これはまた別のシリーズで延べる予定だが、真言は大衆を救う、というよりは、自らを救う、という色の強い宗派である。真言宗を奉じる人々にとって信仰心は、(キリシタンや本願寺門徒などと比べると)戦う理由としてのモチベーションにはなりえなかったのであった。(続く)