古代日本の国家体制は、中央集権的な性格を持っていた。それが崩れ始め、地方分権の時代が始まる。それがリゾーム構造を有する、日本の中世なのである。それにしても何故、日本の中世はこんなにも複雑な社会構造になってしまったのだろうか。
これには複合的な理由があり、歴史学者たちが昔から喧々諤々論じている問題でもある。筆者レベルの学識ではとても追いきれないので、ここでは深くは立ち入らないことにするが、ただひとつだけ、リゾーム構造を象徴する例として「加地子得分」を紹介してみようと思う。
加地子得分とは何か。実は過去の記事で、この言葉は散発的に出てきてはいる。
中世以前の日本社会を支えた主な体制は「荘園公領制」である。平安前期辺りから、国(中央)からの収奪に抵抗するために、地元の開発領主たちが開発した土地を「荘園」として、国司など中央のお偉いさんたちに寄進することが流行する。寄進と言う形で中央にいる実力者の保護を得ることによって、現地における管理権と一定の収入を確保したのである。
時代が下っていくにつれ、こうした開発領主たちがどんどん力をつけてくる。これにもまた複合的な理由があって、例えば理由の一つが「押領」である。これは定められた本年貢や本役(労役義務のこと。銭納化されていた)、そして段銭(様々な名目で追徴された税金。例えば神社の復興費用など)を中央に送らず、己のものとして横領してしまうことである。
だが彼ら地元の有力者が豊かになっていった最大の理由は、土地から得られる収入が向上したこと、つまり農耕具の改良や作物の品種改良、治水技術の向上、生産作物の多様化(例えば商品作物である木綿など)などにより、土地そのものの生産力が増したことにあるのである。
Aという、とある土地があるとする。その土地から上がる収入を100としよう。土地からあがる収入の内、これまで50を年貢として取られていたとする。だが実際にその土地から上がる収入は、大昔は確かに100だったのだが、実際には200とか300、場所によってはなんと500や1000になったりするのだ。
こうした定められた年貢以外の余剰収入は「加地子得分」と言う形で、借銭の担保や売買の対象となり、時間をかけて地元の名主層などの実力者の元に集まっていった。取引対象として扱われたのである。
こうした方々の加地子得分を買い集め、財産として集積していったのが、根来の子院らであった。熊取荘の成真院を有する中家に、こうした加地子得分の売買記録を記した証文が、いくつも残っている。他の子院らも同じように加地子得分を買い集めていった。(成真院の例で興味深いのは、こうした証文類に記された権利者の名前は、当初は中家の名で交わされたものが多いのだが、時代が下っていくと次第に成真院の名に置き換わっていくのである。これはつまり、当初は中家の出先機関でしかなかったはずの成真院が、立場が逆転して中家よりも豊かに大きくなっていることを示しているのだ。)
いずれにせよ、このようにして多くの土地の加地子得分が、様々な者たちの手に渡っていった。ここで注意したいのは、例えば成真院は加地子得分を取引によって集めていったのだが、あくまでも「各地の」加地子得分を手元に集めていったということであって、ひとつのまとまった土地の加地子得分を得ていたわけではなかった、ということである。(※子院名に誤りがあったので、2月17日に修正しました)
どうも記録を見る限りでは、加地子得分は細分化されて取引される傾向にあったようである。以下は個人的な考えになるのだが、例えば太郎という者が大楽院に借銭する際に、「必要額のみ」担保としたとする。しかし返せなくてそれが流れてしまい、大楽院のものとなった。つまり加地子は売買されたというよりも、あくまでも借銭の担保としてよく利用された、ということを意味したと思われる。必要額のみ都度、担保として入れてそれが流れていく。そうした取引が長年に渡って繰り返されていった結果、細分化されていったという考え方である。
加地子得分などに見られる、こうした錯綜・細分化した財産形態こそが、中世日本のリゾーム構造を支えていたといえる。こうした権利形態を土地ごとにまとめて一元化するには、「買い集め」などという生易しい方法では進まなかった。強力な武力を持つ支配者が、力ずくで権利者を根こそぎ一掃する、という方法でしか解決できなかったのであった。中央集権的性格を持つ戦国大名の登場である。(続く)