根来戦記の世界

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日本中世の構造と戦国大名たち~その③ 尼子氏の場合(上)・構造改革に悪戦苦闘した晴久

 前記事で紹介したように、「加地子得分」を代表とする錯綜した権利関係を元に構成された、これまた錯綜した「リゾーム構造」を持つ日本の中世社会。こうした社会の中から、富と武力の蓄積に成功し、権力を持つ者が各地で台頭してくる。後に戦国大名となる者たちである。

 土着の開発領主などでいうと、国人層がそれである。彼らはローカル色の強い地頭職などから力をつけてきた在郷武士で、その代表的な例に安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏などがある。また在京していた不在地主である守護から、その地の経営を任されていた守護代なども力を持つようになる。尾張織田氏、出雲尼子氏などがそうである。守護からそのまま、戦国大名に華麗なる転身を遂げた者もいる。いわゆる名門である、甲斐武田氏駿河今川氏などがこれにあたる。変わった例では、在京していた公家でありながら敢えて京から地方に下向し、土着勢力として生き抜こうとした土佐一条氏などもいる。

 いずれにせよ、地方の生産力向上と共に、地域の実力者が力をつけていく。更にそれらの間で激しい生存競争が繰り広げられた結果、生き残った者が戦国大名として大きくなっていくのである。彼らは敵を滅ぼす、ないし支配下に組み込むことによって錯綜したリゾーム構造を清算するという、中央集権的な性質を持っていた。

 とはいえ、一口に戦国時代といっても案外長い。数え方にもよるが、100年ほどあるわけだから、前期の大名と後期の大名とでは、当然体質に差が出てくる。特に前期における強大な大名のことを「戦国大名」ではなく「戦国期守護」と呼ぶ人もいるのだ。

 戦国初期を代表する大名といえば、例えば尼子経久の名が挙げられる。応仁の乱以前の1458年に出雲守護代の家に生まれ、主家である京極家を追い落とし、最終的には出雲の他、石見・隠岐伯耆・備後などを支配下に置いた、山陰の雄である。

 経久が尼子氏の実権を握り、名を馳せ始めたのは1520年頃からである。彼の戦歴を追っていくと、実に華々しい。1528年には備後国侵攻、1534年には美作国侵攻、そして1537年には大国・大内氏から石見銀山を奪取しているのだ。

 ところが経久の出雲における領国経営の実態を見てみると、違う風景が見えてくる。1520年頃の記録を見る限りでは、尼子氏の直接的な基盤は能義郡北部・意宇郡東部・大原郡北部・そして宍道湖北岸など、出雲東北部に限られていたようである。

 その後、尼子氏はじわじわと時間をかけ、出雲国に力を浸透させていく。その最大の障害は、出雲国西部・塩治郷に強い勢力を持っていた塩治氏であった。この塩治氏は、幕府奉行衆の一員でもあり(紀州の湯河氏と同じ)、守護代である尼子氏の権限の及ばない、独立性の極めて強い存在だったのであった。また日本有数の伝統を持つ、宗教的権威である杵築大社(出雲大社のこと)とも繋がりがあり、水運で非常に栄えていた港を抱えていた他、鉄の産出地まで有していたのである。

 1530年頃には「塩冶興久の乱」が発生する。この時の塩治家の当主・興久は、よりにもよって塩治家に養子として送り込んでいた、経久の次男であった。経久はこの乱の対応に非常に苦心するが、3年ほどかけて滅ぼすことに成功する。そして新しく得たこの地は、経久の実弟である、尼子国久に託されることになる。

 次は出雲国南部、横田荘を制していた三沢氏である。出雲の国衆では最大の勢力を誇っていたこの三沢氏に対して、早くも1513年には尼子氏が横田荘に侵攻している記録が見られる。最終的にこれを屈服させ、同地を直接的支配下に組み込めたのは、ようやく30年後の1543年になってからであった。また三沢氏はこの地から完全に駆逐されたわけではなく、ある程度の力は有していたようである。

 華々しい他国への侵攻の裏で、同時進行的に経久は出雲国内の平定に苦労していた。つまり経久はその実力と信望で各地の国衆をまとめ上げ、他国へ侵攻するほどの勢力を持ってはいた。しかしその内実を見てみると、出雲国内にいる国衆ですら(少なくも1530年半ばから40年代までは)、尼子氏には直接的には従属しておらず、あくまでも協力して動いていた、というスタンスにすぎなかったのであった。

 

洞光寺蔵・尼子経久肖像。彼の置かれた立場を象徴する、面白いエピソードが「塵塚物語」という書物に載っている。経久は自身の持ち物を褒められたら、何でも人にやってしまう性質だったそうで、それに気を遣った家臣たちは、経久の持ち物をなるべく褒めないようにしてたそうな。ところがある日、経久の屋敷に来た家臣が庭に植えてあった木をうっかり誉めてしまったところ、それすら抜いて渡そうとしてきた、というものである。このエピソードは戦国後期に成立した、いわゆる説話集に載っている話なので、信憑性には乏しいのだが、経久の苦しい内実をよく表しているのではないだろうか。つまり配下の国人衆らの協力を仰ぐためには、自分の懐を痛めてでも、気前よく分け前を配分しなければならなかったし、また自身が豊かに見えないように気を遣っていた、ということである。更に面白いのは、親交のあった五山の僧、惟高妙安が記した当時の記録には「瓜ノ皮ヲ、厚ウ剝クコトヲ嫌ウ」「性シワイ人」と評されてもいるのだ。どちらかというと、この吝嗇さこそが彼の本質だったような気がする。にも関わらず「気前よく人に分け与える」という、本質とは異なる行動をとっていたところに、彼の凄みを感じる。

 尼子家の家督は、1537年に経久から孫の晴久に移り(早逝していた長男・政久の息子)、領土的にはこの時代に全盛期を迎える。将軍より「八か国の守護」に補任されるのだ。だが彼の統治は万全ではなかった。複数の国の円滑な統治を可能とする、体制としての中央集権化が進んでいなかったのである。カリスマである経久亡き後、尼子家は衰退への道を歩み始めるのだ。

 これではいかん、ということで晴久はこれまでの拡大路線をやめ、構造改革を試みる。超重要拠点・石見銀山のある西はともかくとして、播磨以東への侵攻は控えめにして国内の統制に力を注ぐことになるのだ。国衆・三沢氏への圧迫、直轄領の拡大、直属の家臣団である「富田衆」軍団の拡充などである。そうした流れの中で、彼の統治下で発生した最大の事件が「新宮党の粛清」である。

 塩治一族亡き後、塩治郷を支配していたのは、晴久にとって叔父である国久率いる新宮党であった。新宮党は尼子家の軍事力を担う柱的存在であったが、領内における独自の裁判権を有し、晴久の決定にもたびたび介入するなど、尼子家の中央集権化には逆行する存在であったのだ。

 1554年11月1日、国久親子は富田城内で粛清される。塩治郷をはじめ、国久が率いた新宮党の所領は全て没収され、その多くを自らの直轄領とした。これを以て、出雲国における晴久の中央集権化は、それなりに進んだといってもいいだろう。だが構造改革には、必ず副作用が発生する。軍事の要であった新宮党の粛清により、尼子家の軍事力は一時的に大きく下がったのである。そして晴久にとって不幸なことに出雲のすぐ隣には、亡き祖父・経久を凌ぐほどのカリスマ・毛利元就が、ものすごい勢いで勢力を伸ばしていたのであった。(続く)