根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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日本中世の構造と戦国大名たち~その⑥ 毛利氏の場合(下)・その緩やかな支配構造

 ローカルな独立勢力である、いわゆる「国衆」たち。その国にある守護や守護代などの強大な存在、もしくは国衆の中から一頭抜きんでた存在などが他を圧しはじめると、その大名の本拠地周辺の国衆たちは、次第にその大名の譜代家臣化してくる。

 毛利氏でいうと、国司氏、児玉氏などがそうであり、早くから譜代化している。だが吉田荘周辺はともかく、安芸国内であっても少し離れた場所にいる国衆たちは、1557年時点においても、まだ譜代化していなかったのは、前記事で説明した通り。そういう意味では、1565年に出雲に攻め入れられた際に、多くの国衆に裏切られた尼子義久と「中央集権度」という点では、大きな差はなかったといえる。では何が違っていたのだろうか。

 毛利を支えた両川といえば、元春率いる吉川家、そして隆景率いる小早川家である。その両川の片翼である小早川家において、面白い事例が見られる。毛利家から小早川家に送り込まれた家臣、という者らが多数存在するのだ。

 例えば岡就栄(なりひで)という男がいる。彼は小早川家の家臣であるから、当然主家から知行をあてがわれている。だが実は、小早川家の家臣になる前から既に別の知行地(下兼国名・吉宗名・真重名など)を所有しているのだ。これは主家が毛利家だった時代にあてがわれた知行、ないしは相続を保証された知行なのである。

 元就が死んだ時、岡就栄は毛利家の新当主になった輝元から、下兼国名以下の知行地を再び安堵されている書状が残っている。毛利家家臣時代に保証されていた、これらの知行地を再び保証するのは小早川家ではなく、元いた毛利家なのである。なので彼は小早川家に入った後も、毛利家との関係を維持していた。

 このように、両家から知行をあてがわれていた家臣を「両属家臣」と呼ぶ。この両属家臣だが、小早川家から毛利家、つまり従属的立場の家から主家に対して上がっていくパターンは存在しないようなのだ。あくまでも主家から従属的立場にいる家に、天下って入っていくのである。この話をここまで聞いた貴方はきっと、「なるほど、こうした方法で小早川家の勢力を削いでいきつつ、毛利家の力を増すという、中央集権化を進めていったのだな」と思ったことだろう。筆者も最初、そう思った。

 ところが、必ずしもそうではないらしいのである。村井良介氏の研究によると、毛利家からの新参であるこうした両属家臣らは、小早川家に昔からいた「庶家出身の重臣たち」をけん制する役割を持っていたらしい。これら新参家臣らの多くは、小早川家において奉行職となり、政権中枢に近い地位に抜擢されていくのだが、古参の家臣らはそうなっていないのだ。

 こうした新参者らを重用する人事を取ることで、家中における昔からの旧勢力を抑制・駆逐するという効果を生んだらしい。つまり大名直属の新しい官僚群の育成であり、「小早川家における中央集権化」に役立つ動きなのである。弱体化ではなく、逆に強化していることになる。

 ポイントは、出世の中心となるのは「両属家臣」だということである。彼らが出世して、守旧派の力を削ぐことで小早川家の力は増すわけだが、同時に小早川家における毛利家の影響力も増すことになる。毛利家は「従属下にある家の力を奪って、主家の力を増す」のではなく、「従属下にある家を強くしたうえで、主家の力も増す」という方法を取っていたということになる。

 現代風にいうと、提携先の会社に送り込まれた腕利きの兼務社員、というところか。ひと昔前に流行った(あまり好きな言葉ではないのだが)いわゆる「win-winの関係」である。実際、本家毛利家を支える両川体制は元就の死後も長く続き、若年の輝元を支え続けたのである。

 

米山寺蔵「小早川隆景像」。文武知勇兼ね揃えた、文句なしの名将である。本家筋であるが、まだ若年であった輝元に対して、折檻を伴う教育をほどこすなどして厳しく指導していた、と伝えられている。だが豊家からきた養子・秀秋(既にアルコール依存症だったらしい)に対しては、そうするわけにいかなかっただろうから、さぞかし苦労したことと思われる。あまり婦人を近づけず実子を成さなかったことから、同性愛的志向が強かった人かもしれない。

 

 対して尼子晴久は、祖父から受け継いだ新宮党を粛清する、という毛利家と真逆の方法を取ってしまった。勿論、両家の置かれた立ち位置や、内部事情は異なっているから、これを以てして晴久の取った方法が間違いであった、とは言い切れない。晴久による新宮党粛清は「尼子家の中央集権化を促進した」と評価する人も多いのだ。

 是非はともあれ、両家のこの姿勢の違いはどこから生まれたものであろうか。先の記事で紹介したように、同志的結合である一揆をよし、とする安芸国の文化的土壌もあるだろう。だがそれと同じもしくはそれ以上に、元就の個人的資質に拠るところが大きかったのではなかろうか。

 国の興隆の原因を属人的なものに求めるのは、安易に過ぎて学問的ではない、というお叱りを受けるかもしれないが、案外無視できないほど大きかったような気がする。そしてこの仕組みが成功したのは、元就が長寿であったこと、それも急死ではなく比較的時間をかけての死であったこと、代替わりのタイミングがたまたま周辺に大きな動きがなかった時期であったこと、などが要因として挙げられるだろう。一言でいうと、毛利氏は「ツイていた」のである。

 こうした幸運も含めて、毛利氏独特の「家風」とでしか表現しようのない文化が出来上がっていた。そしてこの家風を根底としたシステムによって、少なくとも戦国後期までは、毛利氏はうまく運用されていったといえる。

 毛利氏に限らず、戦国大名にはそれぞれ独特の「家風」がある。こうした「家風」の構成要素は、時代性や地域性だったり、家格や出自によるものだったり、はたまた当主の個性や人生経験からくるものだったり、様々な要素が複合的に組み合わさって形成されていったものと言えるだろう。

 このような「家風」を基に領国経営をした大名家を、他にも幾つか紹介してみようと思う。(続く)