滅ぶときは、あっけなかった尼子氏。ではその尼子氏を滅ぼした、毛利氏の組織はどのような体制だったのだろうか。
いち国人から、一代で成りあがった下剋上の典型ともいえる毛利元就。そういう意味では、因習やしがらみといったものに一切縛られなかった彼は自由に行動でき、その類い稀なるカリスマ性も相まって、己の元に絶大な権力を集めることに成功したのであった――と言いたいところであるが、そんなことは全くなかったのである。
安芸の国の特質として、国人衆らの一揆的結合が強かったことが挙げられる。これは遡ること1404年、安芸守護に補任された山名満氏が安芸の国衆に対して、自領根拠となる文書の提出を命じた騒動に端を発する。この頃までには安芸の国衆たちは、自領の多くを自力で開発して生産性をあげていたので、それを横取り(と国衆たちは捉えた)するような無体な動きを、承服するわけには絶対にいかなかったのだ。彼らは連合体である「一揆」を結び山名満氏に抵抗、これを追い出すことに成功する。これを「応永の安芸国人一揆」と呼ぶ。
安芸の国衆らは、1512年にも一揆を結んでいる。これは当時大きな勢力を誇っていた隣国、大内氏と尼子氏に対抗する意味合いのもので、これを「永正の安芸国人一揆」と呼ぶ。このように安芸国内においては、古くから一揆のような同志的結合をよし、とする土壌があったのである。
こうした文化的背景を持つ安芸で、元就が吉田荘にある毛利家の家督を継いだのは1523年のことである。この時点で毛利氏は、大内氏に属する国衆のひとつでしかなかった。しかし、29年に周辺の国衆連合の長的立場であった高橋氏を滅ぼすことに成功、その旧領と盟主的地位を奪うのに成功する。46年には連合内で最大の勢力を誇っていた井上氏を滅亡させている。これを以て、いわゆる大名としての毛利氏の始まり、と見る研究者もいる。
元就の戦略として(どの家もやっていることだが)我が子らを他家に養子として送り込み、それらの勢力を己のものとしていったのはよく知られている。吉川家に養子に入った元春、そして小早川家に養子に入った隆景の両名が有名であるが、実は他にもたくさんいるのだ。穂井田家に入った四男・元清、椙杜(すぎのもり)家に入った五男・元秋、出羽家に入った六男・元倶、天野家に入った七男・元政らである。
実はこれら四男以下は、妾の子らであった。元就はこれら庶子らを、正妻の子らと厳然と区別して「虫けらのごとき者ども」と呼んでいる。また「たいていは、まぬけで無力なものだろうから、その時はどのようにされても構わない」などと、元就自身が書いた書状にある――酷い書かれ方である。
いずれにせよ、元就は時に応じて相手を討つが、通婚・養子縁組による国人衆との融合策も盛んに行っていた。こうした硬軟織り交ぜた政策によって、元就は毛利氏を安芸における戦国大名へと、成長させていったのであった。
そうした背景もあって、毛利氏傘下の国人衆らの立ち位置は、かなり独立性の高いものであった。1557年4月に毛利氏は大内氏を滅ぼしたのだが、同年の12月に、来る翌年の正月に向けた「行事のスケジュール」を記した文書が残っている。この文書には、元就に対して挨拶の使者を出してくるであろう7名(平賀広相・阿曽沼広秀・熊谷信直・天野元定・天野隆誠・天野隆重・出羽元佑)の名が記されている。
そこには「国衆の使者披露」という一文がある。つまりこの7名は、主従関係にある「家来」ではなく国衆である、とはっきりと記されているのだ。毛利家にとってもまたこれら安芸の国衆らにしてみても、1557年というこの時期に至っても、元就は安芸における軍事同盟軍の長、という認識でしかなかったのである。
縁組によって我が子を送り込み藩屏とした他家でさえ、毛利家の直接的支配下に入ったわけではなかった。こうした地においてさえ、惣領家が徴収できる名目の税は非常に限られたものであり、主たる税は各家がそれぞれ徴収するなど、独立的地位にあったといえる。
このように毛利氏においても、体制内において中央集権化はそこまで進んでいなかったことがわかる。尼子氏と五十歩百歩だったのである。実のところ、同時期の大名たちの体質は、どこも似たり寄ったりなのであった。
では毛利氏と尼子氏、この2つの家の運命を分けたものは、何だったのであろう?両家には、何かしら構造的な違いはなかったのだろうか?(続く)