根来戦記の世界

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後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑥ 倭寇 vs 明の軍隊

 倭寇はその主体が日本人だったり、中国人だったり、はたまたポルトガル人だったりしたわけだが、果たして彼らはどの程度、強かったのであろうか。「そりゃ、集団の性格と規模によるでしょ」という突っ込みは正しいのだが、それを言ってしまうと話が終わってしまうので、試しにいくつか事例を拾って見てみよう。

 1557年3月、海塩に布陣していた倭寇が、洪水発生時に小高い丘に陣取って、急造の堤を造成している。官軍を攻撃する際にはこの土手を切って水を流し、官兵の多くを溺死させたと記録にある。この集団は、こうした土木工事を行うほどの組織力・技術力を持っていたということになる。

 戦術面ではどうであろうか。1558年5月7日、福建省の恵安県の知県・林咸は倭寇と戦って、これを撃破したまでは良かったが、追撃戦に移ったところ伏兵にあって逆に戦死している。誘引しての伏兵攻撃など、釣り野伏を彷彿とさせるではないか。この倭寇の中には或いは薩摩の人間がいたのかも、と想像したくなる。

 彼らは城攻めもして、よくこれを落としている。最も中国の大きな町は日本と違って、すべて城壁に囲まれた城市であったから、城攻めせざるを得ないのだが。普通の戦争のように、戦略的にここを落とさねば戦に負ける、という概念ではなく、ただ単に略奪のために襲っているだけだから、城が堅くて落ちそうにないときは、さっさと兵を引いて移動、次の獲物を探すのだ。

 次にこれと戦った明側なのだが、当時の明の軍制を見てみよう。

 まず明においては、戸籍が軍に属する者たちがいた。これが本来の明の正規軍の構成員であり、これを「軍戸」と呼んだ。彼らは世襲制で畑も耕していたそうだから、日本で言う郷士のような存在に近いかもしれない。ただ中国は武よりも文を重んずる国だったから、社会的な身分は低かった。また労役も過重であった上、上層部による給与のピンハネなどが横行していたから、軍戸からの逃亡が相次いでいた。この仕組みを「衛所制」と呼ぶが、この時代には事実上、有名無実化していたようである。

 その代わりに、当時の明は募兵制によって兵を集めていた。この募兵制は世襲ではなく一代限りのものだったが、募集だけでは集まらなかったらしく、地域によっては強制的な徴募も行っている。彼ら募兵は常備軍ではなく、平時は原籍に戻される仕組みになっていた。また春夏は農業に従事させ、秋冬は訓練を受ける、というサイクルを採用していた所もあったようである。遠征に駆り出されることもあったが、基本的には募集されたその土地の防衛に携わっていた。近辺の郷土を防衛する自警団、ないしは警察・治安維持部隊のようなもので、これを「郷兵」とも呼んだ。(正確に言うと、募兵はその出自や分遣先によって「民兵」「土兵」「客兵」「僧兵」などに分類されるのだが、ここでは省略する)

 これら郷兵は、土地柄によって強さが異なっていたそうで、異民族と常に相対していた北方の地の郷兵は強かったようだが、倭寇が襲った浙江省辺りはどうであろうか。経済が発達していた先進地域の兵は弱い、という法則をあてはめると、そう強くはなかったような気がする。

 

倭寇図巻」より。暴れる倭寇を迎撃すべく、先を急ぐ明の軍隊。

 

 そんな中、台頭してきたのが「私軍」である。元々は北方の国境でモンゴル勢と戦うために、いつしか採用されていた軍制で、「家丁」と呼ばれる者たちを、将が自費で抱えて兵とした、いわば私設の軍隊なのである。この軍団は「親分・子分」という私的な関係で繋がっているから、よくまとまっていて非常に強かった。

 1556年4月、皂林(ぞうりん)において1万人ほどの倭寇が攻めてきた際、佐撃将軍・宗礼は、わずか900の兵を率いて崇徳の三里橋でこれを迎撃、3回防いで「神兵」と称された、とある。この900の兵が上記のどれに当てはまるのか分からないが、私軍を中核とした部隊だったのではなかろうか。郷兵のみならばこうはいかず、最初から戦わずに逃げていただろう。最もこのケースでは衆寡敵せず、最終的には敗退し、宗礼も戦死してしまうのだが。

 倭寇に対して、よくこれと戦った軍団として、兪大猷(ゆたいゆう)が率いる「兪家軍」と、戚継光(せきけいこう)が率いる「戚家軍」がある。両者とも軍の中心をなしたのはこうした私兵集団であり、例えば「戚家軍」においては、1558年に浙江省で得られた3000人がその中核であった、とある。この3000人は長年に渡って戚継光と行動を共にし各地を転戦するのだが、メンタリティとしては武士団に近かったかもしれない。この私軍部隊を中核として、任地で動員した募集兵を組み込み、軍団を構成するのである。そうして編成された軍は精強で、何度も倭寇を撃破している。

 

Wikiより画像転載。自身も優れた武人であった戚継光は、倭寇が多用していた日本刀に対応するために、狼筅(ろうせん)や苗刀(みょうとう)という武器を考案している。各種兵学書も著しているが、その中には室町時代の剣豪・愛洲移香斎の陰流目録を研究した「辛酉刀法」という、日本剣術に対してどう戦うかを分析した教科書まであるのだ。倭寇平定後は引き続き、彼に忠実な精鋭軍団を率いて北方のモンゴル戦線に転戦、そこでも功を挙げている。(関係ないが、恐妻家だったらしい。親近感を感じる・・)

 

 倭寇と官軍が戦った際に、それぞれの主体が何であるのか、判然としないケースが多いのだが(というか、著者が調べ切れていないだけ)、何となく以下のような図式が成り立ちそうだ。

 郷兵のみ < 倭寇 < 私軍を中核とした軍団

 相手が私軍を中核とした軍団で、大規模な戦いであった場合には、倭寇は大抵、敗北している。彼らの一番の武器は、まずは機動力、そして特殊スキル「暴動誘発」にあったわけだから、この2点を生かしたゲリラ的戦いには強かったのだが、正規軍同士が相対するような「会戦」には向いていなかった、ということであろう。

 これら「私軍」は倭寇を撃破した後も、地方の秩序の維持・回復という役割を果たしていくのであるが、同時に分散的勢力の成長を促進する性格のものであったから、明末における軍閥の興隆にも繋がっていくのである。(続く)