根来戦記の世界

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後期倭寇に参加した根来行人たち~その① 密貿易ネットワーク

 16世紀の中国沿岸。福建省広東省浙江省などでは、海運を使用した密貿易が盛んに行われていた。福建省に至っては、人口の9割が何らかの形で密貿易に関わっていた、とある。明代の中国には「郷紳」という、中央から派遣されてくる現役官僚と連携して、富を蓄える官僚OBの大地主たちがいた。彼らは資本家でもあったから、密貿易にも進んで携わって利を追い求めたのである。

 朝貢以外は貿易を認めず、というのが明の祖法であったから、しばしば海禁令が出されたのだが、効き目はほとんどなかったようだ。商品流通経済が進んでいた中国にとって、そもそも海禁という制度自体に無理があるのだ。中期以降の海禁令に至っては、中国人同士の海運も禁止される、という無茶なものであったから、これを守る者はいなかった。

 これら密貿易に携わっていた大物たちのひとりに、王直がいる。

 若いころに任侠であった彼は、塩商を始めるが失敗。以降、密貿易に転じる。許棟兄弟・李光頭らといった密貿易の親玉の下で、ぐんぐん頭角を現してくる。1542年にポルトガル人と共に種子島を訪れた彼が、日本に鉄砲をもたらしたのは有名な話だ。特に彼は日本との販路の開拓に力を入れたらしく、1545年には助左衛門ら3人の博多商人を仲間に誘い、この密貿易ネットワークに参加させている。

 実は1540年代から、商取引のため日本を訪れる船が急増しているのだ。豊後の神宮司浦や、肥前の平戸など九州の港に留まらず、伊勢や越前、そして関東は北条氏の港にまで、これら密貿易船の入港があったことが記録に残っているのだ。明代の中国では銀が多用されていたから、彼らは特に日本産の銀を求めていた。

 この密貿易ネットワークには、ポルトガル人も多く参加していた。この時期、ポルトガルマラッカ海峡を抑えていたから、東アジアの貿易においてイニシアチブを取ることができる、唯一のヨーロッパ勢として活躍できたのである。これまで彼らは中国産の絹織物・生糸をインドで売りさばき、ヨーロッパ産の毛織物や、東南アジア産の香料を中国に持ち込んでいたのだが、日本との通商路の開拓によって、そちらに注力するようになる。なにしろ、日本との貿易は儲かったのだ。

 ポルトガル初の中国大使、トメ・ピレスが残した「東方諸国記」を読むと、このネットワークには、琉球人もまた多く参加していたことが確認できる。それによると「琉球はヨーロッパにおけるミラノのような存在だ。彼ら琉球人はポルトガル人と違って娼婦を買わない、正直な人たちである。奴隷の売買をしないし、全世界と引き換えにしても仲間を売ることはしない。彼らはこれについて死を賭ける」とベタ褒めである。また同書には「彼らは海難時には、美女を買って犠牲にすることを誓い、救護を祈る」という記述があるが、これは琉球船の慣習として聞得大君(きこえおおきみ)などの女神を航海守護神として祭り、暴風の際には乗員が髪を切って海中に投じて祈る、という風習が誤伝され、こうした記述になったものと思われる。

 これら密貿易商人らの本拠地は、浙江省・双嶼にあった。密貿易の拠点らしく国際色豊かな港であった。1540年頃の双嶼港について、メンデス・ピントというポルトガル人が「アジア放浪記」という書物に記している。そこには「1000戸の家、2つの病院、1軒の慈善病院、ポルトガル人1200人を含む、3000人が居住していた」とある。日本人も多数、居住していたと思われる。

 

密貿易のメッカ・双嶼と、各地との位置を示した地図。密貿易業者の船団は、この海域を縦横無尽に駆け巡っていた。東アジアにおける大航海時代である。

 

双嶼について、より詳細な情報を知りたい方はこちら。筆者がいつも見ているブログで、戦国時代の日本に留まらず、世界各地の都市や人物に関しても取り上げている。物凄い情報量で、勉強になる。

 

 彼らの生業はあくまで密貿易だったので、略奪などはそんなには行っていなかったようだ――とある事件が起きるまでは。ただ、密貿易業者間の争いは盛んにあったようである。また密貿易につきものの、地方官に対するお目こぼしの賄賂なども横行していた。(続く)