根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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根来と雑賀~その⑤ 根来vs雑賀 ラウンド2 信長による雑賀侵攻と、その先導を務めた杉乃坊(下)

 山手から攻め寄せる織田軍3万は、佐久間・羽柴・堀・荒木・別所らの諸軍で構成されていた。その先頭に立つのは杉乃坊、そして雑賀三郷の者どもだ。

 この山手勢は雄ノ山峠を越え、田井ノ瀬で紀ノ川を渡河し、焼き討ちと略奪を重ねながら、2月24日頃には小雑賀川(和歌川)まで到達したようだ。この川を越えれば雑賀庄である。しかし雑賀衆はこの川沿いに複数の砦を築き、最終防衛ラインを敷いて待ち構えていた。

 

前記事の地図と同じものを再掲。江戸後期に編纂された地誌である「紀伊風土記」には、紀州藩内の寺伝が幾つも収集されている。それらを分析すると、織田軍の進撃路から離れたところにある寺社が、数多く焼けているのが分かる。別動隊による焼き討ちや略奪があったのだろう。「信長公記」にも、進撃の際に「諸所を焼き払った」という記述がある。

 織田勢は構わず、敵前にて渡河を試みたようだ。しかし対岸は岸が高かったうえ、柵が設けられていたとのことで、上陸できず悪戦苦闘しているところを鉄砲で散々に撃たれてしまった、とある。至近距離からの射撃にさらされた、先鋒の堀秀政の部隊には相当な被害が出たようで、「信長公記」には「堀家の主だった武者、数名が討ち死に」とある。

 

和歌山市立博物館蔵「紀州名所図会 雑賀合戦」より。なおこの「紀伊名所図会」には、「雑賀勢は川を一旦干し上げて、川底に壺・桶などを埋めておき、渡河中の人馬が足を取られた隙を狙って撃った」旨が記載されているが、どうだろうか。この時期の雑賀庄にそんな大掛かりな土木工事をする余裕があったとは思えないし、試みようにも残りの三組がさせなかっただろう。「紀州名所図会」は江戸後期に編纂された、現地で採取した言い伝えを収集した地誌なので、どこかの段階で創作された逸話を取り込んでしまったものと思われる。

 山手勢はなんとか渡河できる場所を探していたようだが、雑賀はゲリラ戦でこれに対抗する。浜手勢は中津城、山手の軍は小雑賀川、この2カ所で進撃を阻まれて、攻撃が停滞してしまう。こうして互いに決め手がないまま、2週間ほどが過ぎる。

 そして3月15日、この戦いは雑賀が織田に降伏するという形で、唐突に幕を下ろすのである。信長が雑賀衆を「赦免」するという形で朱印状が出されているのだ。だが実質は、雑賀衆の勝ちに等しい引き分けだったと見られる。雑賀に対して罰則は一切なく、織田方にしてみれば骨折り損のくたびれ儲け、大軍を動員した割には益することのない戦いであった。

 それにしても10万という大軍を動員しての、この戦果の乏しさはどうしたことであろう。残された記述から、両戦線で雑賀衆の鉄砲隊が大活躍していることが分かるのだが、幾ら鉄砲を多く持っていたとしても、雑賀庄・十ケ郷はどんなに頑張っても2~3千人程度の兵しか動員できていなかったはずだ。しかも、各砦に分散しての配置である。対する織田は、浜手と山手でそれぞれ3万もの軍勢がいたわけだから、力押しで攻めればどうにかなったような気がする。理解に苦しむところである。

 信長のこの戦役の真の目的は、雑賀に対する本願寺への援軍意図を挫くため、そして和泉国に影響力を増すため、この2点であったから目的は達成したのだ、という説がある。だがあの信長が、そんなまどろっこしいことをするために、10万もの兵を動員するだろうか?それならばまだ雑賀攻めは囮であって、実は全く別の狙いがあった(朝倉氏を滅ぼした時のように、兵を返して本願寺を急襲するとか?)、だが思った通りに行かなかったので、さっさと休戦に合意した、と考える方がまだ理解できるのだが・・・

 さて根来衆だが、先述した通り杉乃坊が山手勢を先導している。杉乃坊は雑賀衆と戦ったのであろうか?山手勢は小雑賀川で渡河作戦を行っているが、杉乃坊を中心とする根来衆は、そうした兵種で構成されていなかったから、渡河そのものには参加していなかっただろう。また援護射撃しようにも、対岸からは遠すぎる。その後は戦線が膠着してしまったから、ますます出番はなかったはずだ。

 天王寺合戦に引き続き、此度の戦いでも根来衆は戦闘に寄与できなかったようだ。そして雑賀衆はと言うと、織田の大軍相手に一歩も引かず、再びその名を天下に鳴り響かせたのである。(続く)