陥落寸前の城を救うため、織田・徳川連合軍3万8000が長篠に急行します。5月18日には設楽郷に到着、信長は極楽寺山裏に本陣を構えました。家康が布陣したのはやや前方にある高松山(弾正山とも)です。翌19日から、有名な馬防柵の建設が始まっています。
指呼の距離にまで迫った織田・徳川連合軍に対して、勝頼は下した決断は「決戦あるのみ」でした。どうも設楽原における陣地構築の動きを「戦いを決断できない、連合軍の弱気」と判断してしまったようです。また信長は本陣を山の後ろに置いたので、勝頼は連合軍の総数を正確に把握できず、戦力を過小評価していた可能性があります。
しかし百戦錬磨の武田軍は、戦前の偵察・情報収集をしっかりやるイメージです。重臣らは総じて撤退を主張した、とあるから、それなりの情報は上にあがっていたのではないでしょうか。長篠城は健在なわけだから、戦略的に不利な立場にあることも一目瞭然。不幸中の幸いで、連合軍が陣を構えた設楽原との距離は、まだ4~5kmほどあります。撤退戦なので、追撃を食らってそれなりのダメージは被るでしょうが、今ならまだ間に合うのです。
にもかかわらず、勝頼が上記の結論に至った一番の要因はやはり、此度の遠征には何らかの成果が必要であった、という政治的立場ゆえでしょう。どうしても手ぶらで帰るわけにはいかず、現実を都合のいいように捉えてしまったと思われます。決戦前日に勝頼が駿河久能城代・今福長閑斎らにあてた手紙には、「敵は策を失い、悩み抜いているようだ。無二に敵陣に攻めかかり、信長・家康の両敵どもを討ち、本意を達するも目前だ」とあり、自信満々であった様子が伺えます。
こうして勝頼は長篠城包囲のため抑えの兵4000を残し、1万1000の兵を率いて、3万8000の連合軍が待ち受ける設楽原へと向かったのでした。
――さて長篠城を見学した後、自転車で設楽原に向かいました。長篠城からは4~5kmほどの道のりですが、間に山がありアップダウンがかなりあります。電動自転車でなければ、相当辛かったでしょう。勝頼が辿ったのと同じ道だと思われます。
7月だったので、とにかく暑い!清井田の勝頼本陣近くに「もっくる新城」という道の駅があったので、エネルギー&水分補給のため、立ち寄ります。
「設楽原歴史資料館」を見学した後、ついに設楽原に到着!いろいろと本は読んで知っていたのですが、話に聞くのと実際に見るのとでは、全然違いますね。まさしく「百聞は一見に如かず」でした。まず何に驚いたかというと、戦場の狭さ、つまりは双方の陣の距離の近さです。
※24年1月8日変更:すみません、またしても写真を取り違えていました。以前にあげた写真は別地点のものでした――大変失礼しました。距離があっておかしいな、と感じていたのですが・・・改めて写真をUPしなおして、キャプションも入れ替えました。
20日の午後遅く、武田軍は設楽原に入り、信玄台地沿いに陣を敷きました。彼らの目に映ったのは、連子川と三重の馬防柵。それだけではありません。連合軍の陣地には「身がくし」があった、とあります。これは急造の土塁のことを指していると思われます。つまり連合軍は簡易ではありますが、野戦築城を構築したということになります。
武田氏は東国の大名にしては、鉄砲の重要性をよく理解していた方でした。所持していた鉄砲の数も、それなりにあったようです。ですが肝心の鉄砲玉と火薬の入手に苦労していたことが、各種文献や遺物(青銅製の玉など)から明らかになっています。西国を押さえていた信長の経済封鎖により、東国には外国製の鉛・塩硝が届かなかったのです。
つまり武田氏は、そこまで大量の鉄砲を一度に運用する経験が乏しかった、ということになります。鉄砲を組み合わせた野戦築城と相対したのも、初めてのことだったでしょう。
しかしここまできたら、もう引き返せません。既に日は暮れています。武田方の武士たちは、最後の休息に入ります。朝になったら開戦です。勝頼も21日の朝になったら、攻撃命令を下すつもりでした。(続く)