この戦いにおける武田方の戦死者は、1万とも数千とも言われていますが、甚大な被害を被ったことは間違いありません。これまで武田家を支えていた多くの重臣たち――馬場信春、山形昌県、内藤昌秀、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟らが軒並み戦死してしまいました。これら諸将の死は、武田家にとって相当な痛手だったわけですが、同じくらい痛かったのは、数字には表すことができない武田軍の質の低下でした。
先代・信玄公の元、何十年にも渡って練り上げてきた武田軍。一兵卒から物頭、そして先手の将に至るまで、こういう時にはどう動けばいいか、どう指揮をすればいいか、阿吽の呼吸で動ける軍隊に仕上がっていました。武田の強さを支えていた、無名ではあるがこうした戦闘のノウハウを熟知した、歴戦のベテランたちが軒並み戦死したことで、大幅な質的低下が起こってしまったのでした。
長篠の戦いの直後、家康はすかさず奥三河における武田方の城の攻略に動き、獲られていた三河の領地回復にほぼ成功します。次の標的は遠江です。6月には犬居城、そして8月には諏訪原城を奪回、続いて小山城を攻めます。この時、勝頼が1万3000の兵を率いて出陣してきたので、驚いた家康は兵を引いています。長篠で被った痛手の直後に関わらず、勝頼がここまでの大軍を動員してきたのは予想外だったようです。
ですが「三河物語」には「新編成の武田軍は、遠目に見ても急ごしらえの寄せ集めが丸わかりであった」とあります。そもそも山国である甲斐・信濃は、面積に比して石高(生産力)が低く、人口も少ない土地柄です。いったん失ってしまった貴重な人的資源は、そう簡単に回復できるものではなかったのでした。まさしく「人は石垣」ですね。
ただ皮肉なもので、この戦いで父の代からの重臣の多くが亡くなったことで、武田家中における勝頼の政治的立場は強まりました。代替わりで新しく登場した重臣らの子弟の多くは、まだ若年だったのです。代わって勢力を伸ばしたのは跡部勝資ら、昔からの勝頼の側近たちでした。
戦国大名たちはどこかの時点で、必ずこの「中央集権度を強める」という難問に相対しなければなりません。この体質改善、既得権益を持つ者たちからの強力な抵抗にあうのが常なのですが、勝頼は逆に長篠敗戦における代替わりを契機として、武田家の中央集権度を高めることに成功したわけです。躑躅ヶ崎館から新府城への移転などの動きも、こうした重臣層の代替わりなしでは実現しなかったのではないでしょうか。
しかしこの体質改善には家中の混乱、そして戦力の大幅な低下という、一時的な弱体化現象が伴うのが常です。不幸なことに隣には、とうの昔に体質改善を成し遂げ、近世的大名という新しいステージに到達しつつある、信長率いる織田家がいたのです。この織田家に武田家が滅ぼされてしまうのは、長篠の敗戦からわずか7年後のこと。武田家には、勢力を回復する時間がなかったのでした。
戦国大名らの、中央集権に関する記事のシリーズはこちらを参照。
さて、これまで数多くの城を来訪してきましたが、長篠城~設楽原の訪問は、これまでで最もエキサイティングな史跡探訪でした。2年ほど前に行った、関が原も良かったのですが、最近研究が進んだ結果「実際の戦いは、通説とは違う形で推移したようだ」という、大変説得力のある論を知ったばかりだったものだったので、それが気になって没入できなかったのです。長篠は何しろ僻地にあり、アクセスが極めて悪い場所にありますが、機会あれば是非、訪問をお勧めします。
最後に設楽原で、個人的に最も心を動かされた場所を紹介します。武田の陣の最右翼に位置していた、丸山砦です。戦場では最も北に位置する地点になります。長篠の戦いでは、勇者として名を知られていた馬場信春が、ここに駐屯していました。
丸山砦は右翼の要石となる場所にあったので、馬場信春は終始、ここから動けませんでした。つまり最初から最後まで、戦場を俯瞰して見ていたはずです。
三代四十年に渡って武田家に仕え続け、生涯で戦に参加すること70回。彼の人生は、武田家の戦歴そのものであったと言ってもいいでしょう。そんな彼の目の前で、今は亡き主君・信玄公と共に人生の全てをかけて育てあげた戦国最強の軍隊が、そしてこれまで一緒に戦ってきた戦友たちが、実力を発揮できずに次々と倒れていくのです。
この時、重臣筆頭格であった信春は、どんな気持ちでこの戦いを見ていたのでしょうか。息子と2人、丸山砦を背に設楽原を眺めながら、しばし物思いに耽ってしまいました。
敗戦と決まったとき、信春は殿軍を務めます。勝頼を逃すため、最後まで戦場に踏みとどまって討ち死にしたのです。その見事な最期は、敵方である太田牛一が記した「信長公記」においても、「比類なき御働き」と称賛されるほどでした。
「平家物語」において、壇ノ浦の戦いの際、平家の総大将・平知盛は滅びゆく平家一門を前にして、「見るべき程のものは見つ」と言って入水したと伝えられています。
稀代の老将もまた「見るべき程のものは見つ」後に、最後のご奉公として成すべきことを成してから、逍遥と死に赴いていったのでした。(終わり)
<参考文献>
・検証 長篠合戦/平山優 著/歴史文化ライブラリー