21日の日の出と共に、勝頼は攻撃命令を下します。武田方の主力は左翼にいた山県昌景・原昌胤・内藤昌秀・小山田信茂らが率いる精鋭部隊でした。徳川方は右翼に位置していたので、もろにその猛攻を受けます。
武田氏の戦闘スキルは、戦国最強といってもいいレベルのものでしたが、戦闘の様相は野戦とはかけ離れたものでした。徳川方は、野戦築城を最大限に生かした戦い方をしてきたのです。つまりは攻城戦に近い戦いだったのです。
徳川方の大久保兄弟が、敵が攻めてきたら柵の後ろに退き、敵が退いたら追撃し、常に敵と一定の距離を保って戦っているのを見た信長が「よき膏薬の如し。敵について離れぬ膏薬侍なり(当時の薬は、布に薬を塗って貼り付けた)」と評したのは、このときのことでしょうか。連合軍の陣は崩れず、膠着状態が続きます。
戦闘から2時間ほど経過したころ、長篠方面から煙があがります。ほぼ同時に、勝頼のもとに衝撃的な報せが入りました。勝頼は長篠城を包囲するため4つの砦を築いており、そこに抑えとして小荷駄を含む3000~の兵を駐屯させていたのですが、南から大回りした酒井忠次率いる4000の徳川別動隊に奇襲されたのです。砦は全て陥落してしまい、長篠城は解放されてしまいました。
つまり勝頼は、長篠城と連合軍との間に挟まれてしまった形になります。事ここに至って残された道は、前面にいる連合軍を何としても撃破するしかなくなってしまったのです。覚悟を決めた武田方は、死に物狂いで連合軍に襲いかかったのでした。
百戦錬磨の武田武士たちは、鉄砲に撃たれながらも連子川を越え対岸に渡り、柵を引き倒します(長篠城攻略時のように、鹿の角を使ったのかもしれません)。更にそこから前に進まんとする武田方。しかしその先には更に柵があり、そこからも絶え間なく鉄砲が放たれます。
ひたすら撃たれ続けながらも、攻める武田方。左翼の山県隊の元にいた、甘利信康隊など一部の攻撃隊は、3段目の馬防柵まで引き倒した、とあります。ですが馬防柵の後ろには、ほぼ無傷の3万の兵が控えているのです。
一方、武田方は兵力が決定的に足らず、後が続きません。出血を強いられながらも何とか陣地を突破した部隊も反撃にあい、討ち取られてしまいます。厚い兵力の壁に阻まれて、跳ね返されてしまうのです。
昼過ぎには、武田方の攻撃は手詰まりとなってしまいます。依然として連合軍の野戦築城は健在、そして兵はほぼ無傷です。流石は信長、事前に狙っていた戦術がバッチリ嵌った形です。午後2時頃、残存部隊が勝頼の周りに集まり始めます――撤退するサインです。
連合軍はすかさず馬防柵から出て総攻撃を開始します。武田方は総崩れとなり、この撤退戦で数多くの勇者たちが斃れてしまいました。勝頼を逃すため、多くの重臣が踏みとどまり盾となって死んでいったのでした。(続く)