根来戦記の世界

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旅行記~その⑥ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(下) 

 21日の日の出と共に、勝頼は攻撃命令を下します。武田方の主力は左翼にいた山県昌景原昌胤・内藤昌秀・小山田信茂らが率いる精鋭部隊でした。徳川方は右翼に位置していたので、もろにその猛攻を受けます。

 武田氏の戦闘スキルは、戦国最強といってもいいレベルのものでしたが、戦闘の様相は野戦とはかけ離れたものでした。徳川方は、野戦築城を最大限に生かした戦い方をしてきたのです。つまりは攻城戦に近い戦いだったのです。

 徳川方の大久保兄弟が、敵が攻めてきたら柵の後ろに退き、敵が退いたら追撃し、常に敵と一定の距離を保って戦っているのを見た信長が「よき膏薬の如し。敵について離れぬ膏薬侍なり(当時の薬は、布に薬を塗って貼り付けた)」と評したのは、このときのことでしょうか。連合軍の陣は崩れず、膠着状態が続きます。

 戦闘から2時間ほど経過したころ、長篠方面から煙があがります。ほぼ同時に、勝頼のもとに衝撃的な報せが入りました。勝頼は長篠城を包囲するため4つの砦を築いており、そこに抑えとして小荷駄を含む3000~の兵を駐屯させていたのですが、南から大回りした酒井忠次率いる4000の徳川別動隊に奇襲されたのです。砦は全て陥落してしまい、長篠城は解放されてしまいました。

 つまり勝頼は、長篠城と連合軍との間に挟まれてしまった形になります。事ここに至って残された道は、前面にいる連合軍を何としても撃破するしかなくなってしまったのです。覚悟を決めた武田方は、死に物狂いで連合運に襲いかかったのでした。

 百戦錬磨の武田武士たちは、鉄砲に撃たれながらも連子川を越え対岸に渡り、柵を引き倒します(長篠城攻略時のように、鹿の角を使ったのかもしれません)。更にそこから前に進まんとする武田方。しかしその先には更に柵があり、そこからも絶え間なく鉄砲が放たれます。

 

武田方の攻撃を再現する息子。ちょうど連子川を越えたところから、馬防柵に向かって走っていきます。御覧の通り、敵陣まであともう少しです。

 

しかし信長が用意した、1000挺とも3000挺とも言われる鉄砲、そして野戦築城の前には、練り上げた野戦のノウハウは通用しません。途中で撃たれてしまい・・・

 

あえなく倒れてしまいました。このようにして多くの武士たちが斃れていったのでした。なお年配の方はご存じだと思いますが、かつて「武田騎馬隊」という言葉がありました。海外においては、ポーランドの「有翼衝撃重騎兵」のように列を組んで(なんと戦場に5000騎も投入したそうです。もちろん、全部が同一の隊列を組んだわけではないでしょうが・・)一斉に突撃する、という戦術があったのですが、武田にも同じような騎馬隊がいた、という論があったのです(映画「影武者」にも出てくるのがそれです)。「武田騎馬隊」の存在はだいぶ昔に否定されています。その反動か、一時は日本戦国期においては追撃戦などを除けばアグレッシブな騎馬戦闘そのものが殆どなく、武士はすべからく馬から降りて戦ったのだ、という論まで出ましたが、現在では状況に応じて騎馬集団(多くても2~30騎ほどでしょうか)で突撃する戦法はよくあった、という論に落ち着いたようです。(というか、そもそも「馬」防柵をこうして設置しているわけで、騎馬戦闘がなかったという論は乱暴ですよね。)この設楽原ではどうだったのでしょうか。連子川を越えるのは相当難儀したと思うのですが、徳川方の記録には「武田の騎馬武者が、数十人で集団を組み攻めかかってきた」とあるので、やはり行っていたのでしょう。

 

こちらは連合軍の陣地にある馬坊柵で、鉄砲足軽の真似をする息子。再現されていたのは馬防柵だけですが、実際には「身隠し」程度の小規模なものでしたが、土塁もあったようです。土塁があった、ということは土を掘る必要があったわけで、必然的に浅い堀もあったような気がしますが、どうでしょう。また前日まで雨が降っていた、という記録もあるので、武田方は泥濘でかなり足が取られたことでしょう。更に鉄砲だけではなく、弓にも狙われたはずです。

 

同じく馬防柵の列。再現は一部だけでしたが、実際には三重の柵が南北に延々と続いていました。まず連子川に1段目、再現された場所辺りが2段目でしょうか。この後ろの山裾にも3段目があったようです。なお柵のための木材は、家康が用意していたようです。

 

家康本陣・高松山から見下ろすと、設楽原を一望できます。パノラマで撮影したので、ちょっと画像が歪んでいます。武田方は3段目の馬防柵を越えて攻めてきた、とあるので、今は墓になっている丘の下あたりまで攻めてきたことになります。如何に武田方の武士たちが勇猛だったか分かります。

 

 ひたすら撃たれ続けながらも、攻める武田方。左翼の山県隊の元にいた、甘利信康隊など一部の攻撃隊は、3段目の馬防柵まで引き倒した、とあります。ですが馬防柵の後ろには、ほぼ無傷の3万の兵が控えているのです。

 一方、武田方は兵力が決定的に足らず、後が続きません。出血を強いられながらも何とか陣地を突破した部隊も反撃にあい、討ち取られてしまいます。厚い兵力の壁に阻まれて、跳ね返されてしまうのです。

 昼過ぎには、武田方の攻撃は手詰まりとなってしまいます。依然として連合軍の野戦築城は健在、そして兵はほぼ無傷です。流石は信長、事前に狙っていた戦術がバッチリ嵌った形です。午後2時頃、残存部隊が勝頼の周りに集まり始めます――撤退するサインです。

 連合軍はすかさず馬防柵から出て総攻撃を開始します。武田方は総崩れとなり、この撤退戦で数多くの勇者たちが斃れてしまいました。勝頼を逃すため、多くの重臣が踏みとどまり盾となって死んでいったのでした。(続く)