そもそも堺は、遣明船貿易の拠点として細川氏が支配していた町であった。16世紀半ばには細川氏が没落し、三好氏がその後を取って代わる。だから堺には、三好氏の代官も滞在していたのである。だが、細川氏のように堺を直轄的な支配下におくことはしなかった――できなかった、というべきか。
イエズス会の報告には「この町では、敵対する勢力の者同士が、たまたま町中で出会ったとしても、互いに殺し合うことはしない」とある。戦国大名らの介入を許さなかった、この強力な自治権はどのようにして成立したのであろうか。
堺は「南荘」と「北荘」の、2つの自治組織から成り立っていたことが分かっている。そしてその上位に位置する機関として、36人(10人とも)の豪商から成る「会合衆」と呼ばれる組織があった。堺の町は、この「会合衆」らによって運営されていたと見られている。最も、最近の研究では「会合衆」らの力はそこまで強いものではなく、南北荘の自治を補完する存在であった、とするものもあるようだ。
海外貿易を主とした経済力を背景に、堺の自治権が強くなったのは、1550年代からのようだ。「会記」などの史料に、町衆や年寄衆の会合が目立つようになることからそれが分かるのである。この時期に何があったかというと、実はこの直前の1547年は、明との正規の貿易ルートであった遣明船貿易が、これを最後に途絶えてしまった年なのである。
同時に、この遣明船貿易に携わっていた御用商人たちが没落する。堺の有力商人の集まりである「会合衆」構成メンバーにも、入れ代わりがあったようだ。代わりに「会合衆」の新メンバーになったのは、密貿易ネットワークに参加し、東アジアの海を思うがままに駆け抜けた、私商人たちであった。
後期倭寇が始まる直前の、密貿易ネットワークについての記事はこちら。東アジアの大航海時代である。ダイナミックな時代であった。
50年代からの堺の力の源泉は、こうした密貿易ネットワーク、ひいては倭寇たちが町に持ち込んだ富によるものが主であった。細川氏が没落したのも同じ時期であり、支配者が交代するタイミングと軌を一にしたのである。三好氏も下手に出ずを得なかった。前記事で言及したように、堺からの借銭による軍資金なしでは、軍事行動も行えなかったほどである。
この富を源泉にした、堺の自治機能は非常に高度なもので、信長によって剥奪されるまではイエズス会が本国に送った報告にあるように、「この町はベニス市の如く、執政官によりて治めらる」都市国家だったのである。
この堺の自治機能の象徴が、町を囲む環濠であった。そういう意味では、京も同じなのである。総構でしっかりと囲まれていた、この時期の上京と下京はある意味、巨大な「環濠集落」であったといえる。
京のこの総構がいつ完成したかはよく分かっていないが、16世紀後半には存在していたことが確認されている。拙著「京の印地打ち」の舞台となった、1555年春には既にあったこととして、作中でも登場させている。
シリーズ後半で詳しく述べるが、1534年に京で「天正法華の乱」という動乱が発生する。この時に既に総構があったかどうかは分からない。もしあったとしたら、本格的な戦さにおいて、この総構が機能したかどうかは、この「天正法華の乱」で判明したことになる。もしなかったとしたら、復興時にその反省を踏まえて京の町衆らが築いた、ということになる。いずれにせよ、足軽による略奪や、敵対する共同体との小競り合い程度なら、これで充分であったようだ。
さて堺では、高度な自治が「会合衆」において成されていたわけだが、この総構を築いた京においてはどうだったのだろうか?同じような自治組織というものは、あったのだろうか?(続く)