先の記事で触れた通り、京の自治権がピークに達したのは、1530年代である。この頃何があったかというと、畿内においては一向宗が暴れまわっていた。なぜ一向一揆が暴れまわっていたかというと、幕府の混迷のせいなのである。
応仁の乱以降、幕府は弱体化し、将軍位の座は不安定なものとなっていた。更に1507年に発生した「永正の錯乱」による、管領・細川政元の死により、細川家まで分裂してしまう。この辺りの経緯は実に複雑怪奇であって、詳しく記すときりがないので端折ってしまうが、1530年の時点では、まず将軍位は足利義晴のものとなっていた。義晴のバックには管領・細川高国、そして近江守護の六角定頼らがいた。
これに対抗して将軍の弟・義維(よしつな)を擁していたのが、高国のライバルであった細川晴元である。こちらのバックには、四国の阿波を本拠とする三好元長(あの戦国大名・三好長慶の父である)らがいた。
畿内において小競り合いを繰り返していた両勢力であったが、1531年6月に、細川高国が尼崎において大敗北し、自身も捕まって自害させられてしまう「大物(だいもつ)崩れ」が起こる。文字通り、高国という「大物」の死により、義維を推す「細川晴元・三好元長ライン」が優勢になった――はずだったのだが、今度はこの両者の間で権力闘争が起きてしまう。
この辺りの経緯もまた複雑なのだが、要するにライバルであった高国の死により、「管領の座」と「京兆細川家の家督の座」、両方を得られるチャンスを得た晴元がその後釜に座るべく、敵であった足利義晴サイドに近づいたのが原因であった。自陣営から離脱せんとする、裏切りにも等しいこの動きに、当然のことながら三好元長らは反発する。
晴元の軍事的基盤は脆弱だったから(だからこそ、京兆細川家の家督の座を欲していた)、軍事力では凶暴な阿讃衆を擁する元長には勝てない。そこで晴元は元長を倒すために、意外な勢力を引き込むことにする。それが当時、みやこから山ひとつ越えた向こうにある山科に拠点を置く、一向宗・本願寺だったのである。
1532年6月15日、本願寺は晴元の呼びかけに応じて、畿内一円の一向一揆を動員する。三好元長は敬虔な法華宗徒にして、その庇護者であった。本願寺の法敵である元長を倒すために呼応した一揆勢は、一時は何と10万人にも達したという。流石の阿讃衆もこれには抗しきれず、元長は堺の顕本寺に籠城するも大軍に囲まれ、6月22日に自刃に追い込まれてしまったのだ。(この時点での堺は、まだ環濠で守られていなかった)
晴元の狙い通りになったわけだが、しかしそうは問屋は卸さなかった。燃え上がった炎を鎮火するのは難しい。一旦火のついた一向一揆は、門主・証如のコントロールから外れ、7月16日には奈良でも蜂起、興福寺と春日大社の大半の堂宇を焼き討ちするなどの暴走が始まるのだ。またこの時、一向一揆勢は神獣である奈良の鹿のことごとくを食い尽くした、と伝えられている。
これを何とかせねばならぬ、ということで晴元は、今度は京の町衆に声をかけたのである。町衆には法華宗の信徒たちが多かった。そして一向宗は、彼ら法華宗徒の庇護者であった元長を殺した、憎き敵である。その一向一揆勢が、今度は法華信徒の多い京の町衆を攻撃しようとしている、そんな噂が飛び交ったのである。(もしかしたら、晴元が流した噂だったかもしれない。)
こうして京の町衆たちは自衛のため、立ち上がったのである。7月28日のことであった。(続く)