根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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戦国時代の京都について~その⑥ 町組はどのような組織で、どう機能していたのか?

 このように外敵には結束して、事に当たった町衆だが、町や町組同士でも争うことがあったようだ。時期は違うがやはり同じ日記に、二条室町と押小路三条坊門との間で、何百人もが参加した合戦に近い大喧嘩があり、双方100人ほどの怪我人が出たことが記されている。

 そこで上京・下京を囲む総構とは別に、町組ごとに「町の囲い(ちょうのかこい)」があった。この囲いを出入りするには、釘貫門と呼ばれる木戸門を通らなければならない。つまりは総構の中にも、幾つもの土塀と門があった、ということになる。

 

上杉本「洛中洛外図」より。過去の記事でも紹介した「町の囲い」。上下京内にあったと思われるこの囲いであるが、どこからどこまで囲っていたかは、正確には分かっていない。時期によっても変わってくるが、おおよそ町組ごとにあったのではないかと思われる。作中でもそのように表現している。

 また「洛中洛外図帖」には、十字路にそれぞれ四つの釘貫門が設置されている場面が描かれている。十字路は各町の境目にあたるから、このような仕切り方をする所もあったのだろう。そしてこれら釘貫門は「同じ街筋の人びと」によって守られていた、とある。町ごとに人を出して、輪番制で守られていたのである。日が沈むと門は閉じられたようだから、夜間は違う町組には入れないようになっていた。治安維持のためだろう。

 そしてこの町組ごとに、「町年寄」という役職があったことが分かっている。これを「月行事(がつぎょうじ)」とも呼んだ。世襲制ではなく、一か月の交代制で「お触の伝達」・「経費の徴収」、そして「夜回り(これを「夜行太郎」という)」など、自治活動の実務に当たったという。拙著「京の印地打ち」では、主人公がこの月行事に駆り出され、夜行太郎を行うというエピソードを、一旦は書いた・・・のだが、どうも物語のテンポが悪くなってしまったので、全部カットしてしまっている。

 ただ先の記事で紹介したように、町によっては(特に上京は)いろいろな身分・職業の人が混住していた。同じ共同体に属していたとはいえ、例えば山科言継のような公卿が身分の差を越えて、こうした「月行事」に駆り出されることは、流石になかっただろうと思われる(彼の日記にもそういう記載はない)。

 その辺りの実態はよく分かっていないが、町衆の中には「若衆」と「年寄衆」という2つの組織があったようだから、身分や年齢などによって組織が分かれていて、異なる形での役割分担が成されていたのかもしれない。

 ちなみに町と町との間にも、格差があったようだ。時代が下るにつれ、京の町は総構を超えて拡大していく。人口が増えていくわけだから、必然的に新しい町ができていくことになる。当然、町組に所属する町の数も増えていくことになる。

 ところが同じ町組に属していても、以前からの町と新しい町とでは扱いが違ったようだ。当時の資料に「寄町」「親町」という記載が見られる。以前からある町を「親町」とし、新しくできたその影響下にある町を「寄町」と呼んだらしい。両者の間には(少なくとも、新しい町が成立して間もないうちは)、何らかの格差があったと見られている。

 「寄町」として認定された町はまだいい方で、町組に所属できない町もあったようである。そうした町の住民は、例えば町組主催の祭事(風流踊りなど)に参加できず、ただ指をくわえて見ているしかなかったようだ。そうしたところに、向かい礫の遠因があるような気がするのだが・・・

 

時に合戦のごとき様相を見せた、戦国期・京における、祭りの際の向かい礫についての記事はこちらを参照。

 

 このように町組の実務は「月行事」によって運営されていた。だが別に、上位の意思決定機関として10名の総代がいたことが分かっている。総代には富裕な経済力をもつ酒屋・土倉(どそう)などの有力町衆が就任していたようだ。この辺りは、同じ商業都市である堺の会合衆と似ている。いずれにせよ戦国期の京は、町衆による一定の自治がなされていたことが分かる。

 だが実は、京の自治がピークに達していたのは、拙著「京の印地打ち」で描かれた年より遡ること19年前、1536年辺り、世に名高い「天文法華の乱」の頃なのである。この時期の京の自治権の強さは、大名の介在を許さなかった1560年代の堺すら超えていたのだ。

 次回以降は京が大乱に巻き込まれた、この「天文法華の乱」について詳しく見ていこうと思う。(続く)