根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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戦国時代の京都について~その⑤ 京の自治組織・町組 vs 三好の足軽

 戦国期における京の、最も基本的な共同体の単位は「町(ちょう)」である。これは「同じ街筋の人々」からなる組織なのだが、構成が独特なのだ。「街路を挟んだ向かい側」に住む人々と、結成した共同体なのである。

 京は他の町と違って、方形に区切られた区画を持っていた。これは平安京の名残なのであるが、面白いのは「町」はこの「区画ごと」に整理された共同体ではないのである。あくまでも「通りに面した向かい側」ごとに、共同体が組織されていたのだ。生活動線である通りこそが重要で、それが共同体の軸になっていることがわかる。

 

戦国期の京の、町(ちょう)ごとのイメージ図。単色が、それぞれが属していた町を表す。上記の図では、12の色分けされた「町」があることを表している。原型となる平安京は、綺麗に方形に区切られた町割りだったため、町並みは基本的に碁盤状の区画に整理されていた。それぞれが通りの向かい側との、町割りになっていることに注目。平安京の構造を引き継いだ京独特の現象なわけだが、平城京を基にした奈良はどうであったのだろうか?

 

 このように、ひとつひとつの町の規模は、そう大きなものではなかったが、これらの町が更にいくつか集まって、「町組(ちょうぐみ)」という共同体を形成するのである。例えば下京を例に取ってみると、1571年の時点で下京にあった町の総数は43~53、これらは全て「丑寅組」「中組」「川ヨリ西組」「七町半組」「巽組」といった、5つの町組のどこかに所属していたのであった。

 

下京における5つの町組の境界線。著者が作成した図なので、下京の形状・町組の区割り共に、そこまで正確なものではない。あくまでイメージである。それぞれの町組は10~20程度の町で構成されていた。

 

 この町組は、それぞれがひとつの共同体であったから、結束は強かった。何か事件が起きるとすぐに集まって、集団で事に当たるのだ。拙著2巻の「跡式の出入り」にも少しだけ関係がある、山科言継という公家がいる。彼自身は物語には出てこないのだが、2巻冒頭の正泉による泉州侵攻時、言継は泉州日根野に下向していたのである。記録マニアである彼が克明に記した日記が残っているので、根来衆らの侵攻時の様子が分かるのである。

 彼の京における邸宅は、上京の禁裏御所近くにある「町の畳屋」という町にあったのだが、1527年の11月29日、ここに三好方の足軽が乱入してきたことがある。

 当時の情勢を説明すると、堺に本拠を置いていた足利義維細川晴元が、ライバルであった足利義晴細川高国らを京から追い落とし、洛中支配に乗り出していたタイミングであった。三好氏はこの「堺幕府」に連なる勢力であったから、都落ちした義晴・高国サイドの、残党狩りを上京において行っていたのである。

 日記にはこうある――「五つ過ぎになって『町の畳屋』に、(三好方の)阿波衆の足軽10人ばかりが押し入ってきた。二条より上京の人々が2・3千人も集まってきて、これらを囲んで大声をあげて威嚇した。相手は非礼を詫びて、帰っていった」――三好方のこうした乱暴狼藉に対して、「町の畳屋」の人々のみならず、上京の人々が2~3千人も集まって撃退しているのである。

 そして何と同日の夕刻に、これまた同じ足軽どもであろうか、武者小路にあった下級公家の行方の宿所に、懲りずに押し入っている。同日記にはこうある――「又七つ頃、武者小路の行方のところに(足軽どもが)討ち入ってきた。町の者どもが起ってこれを囲み、鬨の声をあげた。(足軽の)10人のうち、5、6人は矢を射かけられ、両手を合わせて(許しを請うて)帰っていった」――このように、足軽どもはここでも散々な目に遭っているのが分かる。

 次の日になって「昨日の報復に、三好の大軍が押し寄せてくる」との噂が広がった。そこで上京の人々は「町の囲い(ちょうのかこい)」、そして「??(判読不能)の構え」をますます厳重にして、攻撃に備えた、とある。この時、山科言継は所領である山科産の竹を町衆らに配り(囲いを強化するためだろう)、また働いた町衆らを労って、酒を振舞っている。公家であるにも関わらず、言継らも町衆の一員としてこの騒動に関わっていることが分かるのだ。

 この時は結局、三好方の大規模な攻撃はなかったのだが、足軽らによる散発的な乱暴狼藉は続いた。町衆らが朝廷工作を行った結果、12月17日に朝廷から乱暴狼藉を制止するよう、三好方の波多野通に厳命が下ったのである。そしてこれと時を同じくして、上京に鐘の音が響き渡る。当時は一条通にあった、革堂(行願寺)の早鐘である。この早鐘を契機に、上京のみならず下京からも人々が集まって、三好方に対する示威行動である「打ち回り」を行った、と同日記にある。

 このように、京の人々は外敵に対して団結して事に当たったことが分かる。言継の住んでいた近隣、禁裏六町は商工業者・武家・山伏、そして公家など、階層の異なる人々が混住する地域であった。にも関わらず、彼らはみな身分の差を越え、共同体の一員として己の属する町を守る動きに参加していたのである。(続く)