根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉑ もうひとつの鎌倉仏教 「真言律宗(新義律宗)」叡尊と忍性(下)

 さて、叡尊が復興させた「通受」とは、どういうものであろうか。

 戒律には多くのルールがあるのだが、大別すると3つに分けられる。「摂善法戒(善いことを成すための戒)」「摂衆生戒(衆生救済を目指す戒・要するに人々を救う戒)」「摂律儀戒(悪をとどめる戒)」の3種類である。

 この3種の戒を受けることを、「通受」と呼ぶのである。戒を受けるということは、当然これら3種の戒の全てを受ける(通受する)必要があるのだが、いつしか日本ではその簡易バージョンである、「別受」という方式が主力になっていた。この別受は3種類のうち1つ、つまり「摂律儀戒(悪をとどめる戒)」のみを受けるというものである。つまりこの戒は受けても「自己が悪に染まらないようにする」ためのものでしかなかったのだ。

 しかしそれだけではダメで、当然残りの2つ「善いことを成す戒」「衆生救済を目指す戒」も一緒に守らねばならない、というのが叡尊の考えなのである。

 このように今まで顧みられていなかった、後者2つの戒「他者を救済し、善きことを成す」を重視した結果、新義律宗のモットーとして幅広い社会救済事業を行うに至った、というわけである。だがそれにしても、ここまで大規模な慈善者機事業を行うようになったのは、もうひとつの要因が欠かせない。それが忍性という僧の存在なのである。

 彼が新義律宗に参加したのは、叡尊が教団を立ち上げた3年目の25歳の時で、この時は額安寺の官僧であった。まだ若年であったのだが、その人柄に目を付けた叡尊が自らスカウトしたのである。

 この2人の関係性は、もちろん師弟ではあるのだが、同志的な関係性にも近いものがある。なぜならばこの忍性こそが、叡尊の下に「文殊菩薩信仰」を持ち込み、数多くの慈善事業を空前の規模で行い、新義律宗の教線を大幅に拡大させた僧だからなのである。

 教団に入る前から、忍性には信仰のベースとして「文殊菩薩信仰」があったようである。文殊菩薩信仰は、古くから貧者や病者のための施しを行う「文殊会」という事業を行っていることから分かるように、福祉的な性格が強い信仰形態であった。そんな彼が「衆生救済」と「善きこと成せ」と主張する、叡尊に強く惹かれたのも無理はない。こうした傾向を持つ忍性はまた、聖徳太子が定めた「四箇院の制」に深く感銘し、その復興を図っている。

 「四箇院の制」は仏法修行の道場である「敬田院」、病者に薬を施す「施薬院」、病者を収容し病気を治療する「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」を設立・運営したというものなのだが、彼はこれに倣って、各地に様々な種類の福祉施設を開いたのだ。

 叡尊・忍性の指導の下、新義律宗が行った各種事業は「殺生の禁断」の流布、旧仏教の救済対象外であった「女性の救済」、被差別階級である「らい病患者に対する慈善」、宇治橋修繕など各種の「インフラ整備」など、広範な分野に渡る。

 言葉だけの救済ではなく、実際に行動に移したことが評価され、非人から公家、鎌倉幕府、皇族に至るまで、貴賎を問わず帰依を受けたのであった。

 

西大寺蔵「忍性菩薩画像」。後年「真言律宗」と名付けられるこの教団だが、開祖の叡尊自身は「自分たちは戒律を守り、啓蒙活動を行う教団である」という認識で、あくまでも戒律を重んじる真言僧のひとりとして行動していた。そんな戒律教団がここまで大規模な福祉事業に関わるようになったのは、高弟である忍性の個性にあずかるところが多い。らい病患者の救済活動自体は、古くから行われてはいたのだが、あくまでも仏道修行の一環でしかなかった。修行の域を超え、新義律宗が本格的に福祉社会事業を始めたのは、忍性が教団に合流してからのことなのである。奈良のらい病患者の施設である、有名な「北山十八間戸」を設立したのも彼であると見られている(般若寺の良恵という説もあるが、いずれにせよ新義律宗の僧である)。しかし彼はらい病患者の救済のみに注力したわけではない。「らい病患者に限らず、全ての人々を救済するべき」というのが忍性のモットーなのである。彼が生涯で行った慈善・社会事業のうち(幾分誇張もあるだろうが)草創した伽藍は83か所、らい病患者らに与えた衣服は3万3000着、架橋した橋は大小合わせて189本、修築した道路は71か所、掘った井戸は33本、築造した浴室・病屋・非人所は5か所、と伝わっている。こうした事業にあまりにも注力しすぎたため、師である叡尊からは「慈悲ニ過ギタ」と注意されるくらいであった。死後に後醍醐天皇より勅許で賜った諡(おくりな)は「忍性菩薩」であるが、彼にこそふさわしい諡号だといえる。なおこの教団は、こうしたインフラを整備に長けた技術者集団を抱えていたらしい。特に有名なのが関西における伊派と、関東における大蔵派という石工集団である。

 

 ここでようやく、日蓮の話に戻る。ネタバレをしてしまうと後年、日蓮はこの忍性と不倶戴天の間柄となるのであるが、彼が立宗した1252年時点においては、新義律宗の拠点は奈良の西大寺であり、関東にはまだ本格的には進出していなかった。日蓮にとっては戒律復興運動に励む、いち教団に過ぎなかったのである。

 そんなわけでこの時期、日蓮の攻撃性は浄土宗を代表とする、念仏宗に対してのみ向けられていた。安房国・東郷の清澄寺に帰還し、この地にて立宗したのち、彼は浄土宗を激しく攻撃したのである――それこそが世の中を、天変地異から救う手立てだと信じて。

 しかしよりによって、東郷の地を治める地頭・東条景信は、浄土宗の熱心な信者だったのである。(続く)