さて、叡尊が復興させた「通受」とは、どういうものであろうか。
戒律には多くのルールがあるのだが、大別すると3つに分けられる。「摂善法戒(善いことを成すための戒)」「摂衆生戒(衆生救済を目指す戒・要するに人々を救う戒)」「摂律儀戒(悪をとどめる戒)」の3種類である。
この3種の戒を受けることを、「通受」と呼ぶのである。戒を受けるということは、当然これら3種の戒の全てを受ける(通受する)必要があるのだが、いつしか日本ではその簡易バージョンである、「別受」という方式が主力になっていた。この別受は3種類のうち1つ、つまり「摂律儀戒(悪をとどめる戒)」のみを受けるというものである。つまりこの戒は受けても「自己が悪に染まらないようにする」ためのものでしかなかったのだ。
しかしそれだけではダメで、当然残りの2つ「善いことを成す戒」「衆生救済を目指す戒」も一緒に守らねばならない、というのが叡尊の考えなのである。
このように今まで顧みられていなかった、後者2つの戒「他者を救済し、善きことを成す」を重視した結果、新義律宗のモットーとして幅広い社会救済事業を行うに至った、というわけである。だがそれにしても、ここまで大規模な慈善者機事業を行うようになったのは、もうひとつの要因が欠かせない。それが忍性という僧の存在なのである。
彼が新義律宗に参加したのは、叡尊が教団を立ち上げた3年目の25歳の時で、この時は額安寺の官僧であった。まだ若年であったのだが、その人柄に目を付けた叡尊が自らスカウトしたのである。
この2人の関係性は、もちろん師弟ではあるのだが、同志的な関係性にも近いものがある。なぜならばこの忍性こそが、叡尊の下に「文殊菩薩信仰」を持ち込み、数多くの慈善事業を空前の規模で行い、新義律宗の教線を大幅に拡大させた僧だからなのである。
教団に入る前から、忍性には信仰のベースとして「文殊菩薩信仰」があったようである。文殊菩薩信仰は、古くから貧者や病者のための施しを行う「文殊会」という事業を行っていることから分かるように、福祉的な性格が強い信仰形態であった。そんな彼が「衆生救済」と「善きこと成せ」と主張する、叡尊に強く惹かれたのも無理はない。こうした傾向を持つ忍性はまた、聖徳太子が定めた「四箇院の制」に深く感銘し、その復興を図っている。
「四箇院の制」は仏法修行の道場である「敬田院」、病者に薬を施す「施薬院」、病者を収容し病気を治療する「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」を設立・運営したというものなのだが、彼はこれに倣って、各地に様々な種類の福祉施設を開いたのだ。
叡尊・忍性の指導の下、新義律宗が行った各種事業は「殺生の禁断」の流布、旧仏教の救済対象外であった「女性の救済」、被差別階級である「らい病患者に対する慈善」、宇治橋修繕など各種の「インフラ整備」など、広範な分野に渡る。
言葉だけの救済ではなく、実際に行動に移したことが評価され、非人から公家、鎌倉幕府、皇族に至るまで、貴賎を問わず帰依を受けたのであった。
ここでようやく、日蓮の話に戻る。ネタバレをしてしまうと後年、日蓮はこの忍性と不倶戴天の間柄となるのであるが、彼が立宗した1252年時点においては、新義律宗の拠点は奈良の西大寺であり、関東にはまだ本格的には進出していなかった。日蓮にとっては戒律復興運動に励む、いち教団に過ぎなかったのである。
そんなわけでこの時期、日蓮の攻撃性は浄土宗を代表とする、念仏宗に対してのみ向けられていた。安房国・東郷の清澄寺に帰還し、この地にて立宗したのち、彼は浄土宗を激しく攻撃したのである――それこそが世の中を、天変地異から救う手立てだと信じて。
しかしよりによって、東郷の地を治める地頭・東条景信は、浄土宗の熱心な信者だったのである。(続く)