なお服部氏は、1回目の侵攻「文永の役」に関しても、独自の説を唱えている。まず元軍の数に関してであるが、池内説3万以上に対して、服部氏は1万6500人ほど(高麗史による)としている。そして池内説では「博多に上陸した10月20日に戦いが行われ、その日のうちに撤退した」ことになっている。この撤退も「大風によって艦隊がダメージを負ったのが原因」としているのだが、服部氏はこの「1日で撤退した」というのも間違いであると主述べている。
そもそもこの「1日撤退説」と「大風説」の由来は、「八幡愚童訓」に書かれている「白装束の神の使いが現れて、艦隊に弓を放つと海が炎上した。日本の神の怒りを恐れた蒙古軍は一夜で姿を消した」という旨の記述を軸に、当時の貴族の日記「勘仲記」にある「にわかに逆風が吹いて賊が本国に帰った」という記述、更に「高麗史」にある「会夜大風雨」という記述、この3つの記述が合体した結果である、としている。しかし実際には、大風が吹いたのはこれより7~8日後のことであり、元軍は1日で撤退したわけではない、というのが服部氏の主張なのである。
その論拠として氏が述べるのは、「関東評定伝」という史料である。この「関東評定伝」は作者不明・成立時期不明の文書ではあるが、鎌倉幕府の執権・評定衆・引付衆の任命と官歴を記した文書で、「八幡愚童訓」ほど荒唐無稽なことが記された性格のものではない。そしてこの史料にはこう書かれているのだ――「10月24日に(元軍が)大宰府に攻め寄せてきたが、官軍と戦い異族は敗れた」。
これまで「1日で撤退した」という先入観があったがために、この史料は見過ごされてきた。しかしながらその説が間違っているならば、「24日に戦闘があった」という、この史料の価値は高いはず、ということになる。
服部氏が、池内説の一番の問題としている部分は、その説の多くが「八幡愚童訓」に依拠している、ということである。しかしそもそもこの「八幡愚童訓」は、八幡神の大活躍と霊験あらたかさを宣伝するための文書で、蒙古は寺社の祈祷によって撃退された、ということにしたいがために記されたものなのである。
スリングに関しては、こちらのシリーズを参照。投石は人類最古の遠距離攻撃方法であり、古代には投石専用の武器・スリングが発達した。その威力は現代人の想像する以上にあるのだ。
こうした性格の「八幡愚童訓」は、現実に血を流して戦った武士団を貶めている内容になっている。多くの人が知っている逸話、「一騎打ちの名乗りを上げたら蒙古兵にどっと笑われて射られた」という話の出どころも、実はこの「八幡愚童訓」であり、神の力を際立たせるためには武士は役に立たなかった、ということにしなければならないのである。事実、こうしたくだりが載っている史料は「八幡愚童訓」だけであり、敵方の史料にも一切出てこないのだ。
「八幡愚童訓」は元寇から30年ほど経ってから書かれたものであるが、寺社勢力は元寇の最中も盛んに祈祷の力を喧伝していた。彼らにとって元寇は、異国の神と日本の神との戦いであったのだ。
事実「文永の役」において、寺社勢力は「勝利は神仏の加護のおかげ」要するに我らの祈祷のおかげと主張しており、そしてそれは朝廷や幕府に認められていたのである。
そして「弘安の役」においては、分かりやすくまたよりドラマチックな台風襲来というイベントがあったので、祈祷の力は前回以上に評価されたのであった。(7月~8月にかけての北九州は台風銀座であるから、この季節はいつ台風がきてもおかしくないのであるが)
特に新義律宗の開祖・叡尊は朝廷に依頼され、老骨に鞭打って(この時80歳!)弟子たちを集め、大規模な祈祷を石大清水八幡宮において行っている。そしてタイミングばっちり、祈祷した後に台風がやってきたということで、叡尊の名とその法力の凄さは、人々の間で更に高まったのであった。
しかし納得がいかないのは、日蓮とその信者たちである。これに関して、日蓮が信者に送った手紙が残っている。意訳してみよう――「あなたがくれた手紙の中で『九州で吹いた嵐で、島には破壊された蒙古の船が打ち上げられている。京の人々は叡尊の祈祷のおかげだと噂していますが、道理もなにもない』と嘆いていますが、その通りです。このことは我が一門にとっての大事であり、ひいては日本にとっても凶事です。軽々しく言及しないように」とある。
日蓮は困惑していたのである。彼の考えによると、日本は元に占領され、酷い目に遭うはずだったのだ――真言宗や念仏宗などの邪宗を信奉するがゆえに。異国の神は、邪宗が蔓延する日本の神を打ち破るはず、そうでなければいけないはずだったのである。
この頃の彼は、もはや密教すら完全に敵とみなしていた。特に叡山に密教を持ち込み発展させた、円仁・円珍、そして源信の3人を「獅子の身の中の三虫」とまで断じている――密教成分を導入したのは開祖・最澄その人で、彼らはその意思を継いだに過ぎなかったのだが。
日蓮にとっては律僧でもあり、また真言僧でもあった叡尊なぞの祈祷によって日本が救われた、などということは絶対にあってはならないことなのであった。
翌82年9月、体調を崩した日蓮は見延山を出て、常陸の湯に向かった。信者の勧めで湯治を行うことにしたのである。しかし旅の途上で倒れ、10月8日に帰らぬ人となったのであった。
日蓮の法華宗が他の鎌倉仏教といささか毛色が異なるのは、成立した時期にもよるだろう(法然とは100年ほど離れている)。後発の宗派ゆえに、既存の宗派の教えを参考にして、良し悪しを取捨選択して教義を創り上げることができるのだ。浄土宗を否定はするが、その方法論――「南無阿弥陀仏」の代わりに「南妙法蓮華経」の題目を唱える――を取り入れているところなどは、その典型である。参考となる叩き台があるから、矛盾も少ない。白黒はっきりしており、ロジックがとても明解なのである。
上記のような性格に加えて、「法華経こそが絶対で、後は全て邪宗である」という考え方を併せ持つ法華宗は、仏教の一派というよりも一神教に近い性格を持つ。彼らは他宗に対して積極的に論戦を挑み、宣教を行うことでも知られているが、こういうところもキリスト教に似ている。こうした強さを持つ法華宗は、日蓮亡き後も着実に信徒を増やしていくことになるのだ。
なお叡尊と忍性は、ライバルであった日蓮より長生きした。叡尊は1290年に89歳で、忍性はさらにその13年後の1303年に87歳で死去している。しかし新義律宗の最盛期は残念ながらカリスマであった両者の次の代、信空あたりまでであり、室町後期以降はゆっくりと衰退していくことになるのである。(終わり~次のシリーズに続く)
岩井三四二さんによる、元寇もの。相変わらず、すごく勉強した上で書いているのが文章の端々から伝わってくる。主人公は何人かいるが、うち一人は「蒙古襲来絵詞」を描かせた、竹崎季長である。「文永の役」で先駆けしたにも関わらず、恩賞が出ない。そこで彼は九州から遠路はるばる東上し、恩賞を貰うべく鎌倉中を駆けずり回るのだ。また作中では、敵側である元と高麗側にもスポットをあてている。特に高麗の忠烈王とその大臣・金方慶の立場の苦しさには、敵側にも関わらず同情してしまった。更に悲惨なのは、高麗の一兵卒・李である。行きたくもないのに海の向こうまで従軍させられ、命の危険にさらされる羽目になるのだ。この作品にはヒーローはいない。様々な立場の人たちが、元寇という大きな渦に巻き込まれ、右往左往しながらも一生懸命に生きる姿を描いた物語なのである。
<このシリーズの主な参考文献>
・鎌倉仏教/平岡聡 著/角川選書
・鎌倉仏教のミカタ-定説と常識を覆す/本郷和人 島田裕巳 著/祥伝社新書
・蒙古襲来と神風 中世の対外戦争の真実/服部英雄 著/中公新書
・日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る/播田安弘 著/ブルーバックス
・その他、各種論文を多数参考にした