ようやく本願寺第8世の座に就任した蓮如。長く苦しい日々に蓄えていた知見、そして抱いていた理想が本格的に発揮される時が、ついに来たのである。彼の中では弓の弦はすでに限界まで引き絞られていたわけで、あとは矢を放つだけであった。
蓮如がまず行ったことは、これまで本願寺で教えられていた教義の再編成である。
本願寺の土地は、青蓮院の管轄下にあったことは過去の記事で述べた。本願寺が関東の門弟たちの影響下から逃れる際には、この青蓮院の力を借りずしては成らなかったことであり、その結果、本願寺が青蓮院の末寺となってしまったのも仕方のないことであった。またそうした関係であったからこそ、本願寺門主は代々、青蓮院の院主とも近しい関係にあったのである(蓮如も当時の青蓮院門跡・尊応とは極めて親しかった)。
末寺であった本願寺が、本寺である青蓮院に何がしかの金銭を上納していたのはまだいい。しかし蓮如がどうしても許せなかったのは、いつしか本願寺の教義の上でも青蓮院の影響を受け、天台の教えが混淆していたことであった。
そこでまず蓮如は、浄土真宗としてふさわしくない本尊や聖教を焼却するという、教議上の思い切った改革を進めたのである。
そもそも浄土真宗の開祖・親鸞は、本尊としての仏像にそこまで重きを置いていなかった。信徒にはその代わりに、紙や絹に「南無阿弥陀仏」と大書した掛け軸を送り、これを本尊として拝むように、というシステムを編み出していた。
名号が記されたこの掛け軸を「名号本尊」と呼ぶ。しかし時代が下るにつれ、崇める対象として分かりやすい仏像を求める信徒たちの声を無視することはできず、本願寺に限らず浄土真宗各派は、いつしか様々な種類の仏像を再導入していたのである。
蓮如が意図したのは、「親鸞の教えに立ち返る」ということであろう。浄土の教えに適した阿弥陀仏などはまだしも、密教系の仏像などを崇めるのはもっての外、これらは全て燃やしてしまえ!という過激なことをやったのであった。

蓮如はなぜこうした過激な改革を行ったのだろうか。以下、各書から得た知見をブログ主がまとめたものを述べてみよう。少し長くなるが、お付き合いいただきたい。
まず鎌倉仏教の祖師たち――特に浄土系の法然・親鸞・一遍らは特にそうであるが、彼らは「それぞれ深いレベルで思索を行い、教義を確立した」人たちである。彼らにとっての教義とは「己の信仰を言語化」したものであり、旧仏教のそれと比べるとアカデミックな色合いは薄かった。
何よりも自分自身の考えを整理するために、「信仰を言語化」する作業は必須であった。親鸞は数多くの書状を東国の門徒たちに送っている。内容を読むと分かるが、「知的な求めに応じて、教義の体系化を試みた」ものではなく、かつて共に信仰を語り合った人々を対象に、自身の考えを確認するかのように著述することで、改めて己の立ち位置を捉えなおすような内容となっている。
彼らは生涯悩み続けながら、己の信仰=教義を確立していったのである(なので初期と晩期の著述を分析すると、思想が変遷していっているのが分かる。どの期間のどの著述を切り取るかで、教義の捉え方もまた変わってくるのだ)。
彼らは教団運営にはさほど興味はなかった。それよりは己の信仰を突き詰めることにエネルギーを費やした(教えを開いた人たちであったから、開祖と呼ばれるのである)。教えを広げることもしたが、あくまで個人的な師弟関係の中で行ったことで、それを組織化して運営するということなど、考えたこともなかったのである。
時代が下り、室町期になると本格的なスタイルの教団が形成される。教義は既に確立され、その教えを遍く布教する段階に来たのである。教団にとっては如何に教線を伸ばし、組織を大きくするかが一番大事なことであって、この競争に敗れた教団は消滅するか、吸収されてしまうかしてしまうから、みな必死で布教するのである。
そういう意味では室町期は、いわば宗教上の戦国時代に突入したといえる。教団はまた星の数ほどあったから、これを率いていくには庶民に対し明確な教えを提示し、他と差別化する必要があった。
しかしここで教団が頭を悩ます問題が出てくる。庶民の既存の習慣や文化をどこまで許容するか、という問題である。
例えば庶民は、自分たちが長年慣れ親しんだ呪術的行為が、教団が説く教えのどこに位置するか知りたがった。これに対して教団はそれぞれ答えを提示するわけだが、イデオロギーに囚われすぎると彼らの生活を全否定することになってしまい、そうなると彼らは信徒になってくれないのである。
教団としては、流石にそれをそのままの形で許容するわけにはいかなかった。代替案を提示するか、それでも駄目なら「何らかの形でそれを自宗に取り込む」といった形で、世俗が要求するものに対して大幅に妥協せざるを得ないケースが、たびたびあったのである。教団が教線を拡大していくためには――というか、そうしなければ生き残れない――こうした方策は、仕方のないことであったのだ。
布教を担った僧侶たちのこうした妥協は、教団が発展する際にはパイオニア的役割を果たし、信徒の獲得には確かに役立ったのである。しかしこれが積み重なり、大衆に阿りすぎた結果、元の教えに雑多な信仰が入り込んでしまい、よく言えば重層的、悪く言えばごった煮状態になってしまっていた。肝心の教義という点においては、フォーカスが甘い矛盾の多いものになってしまっていた。
これは全ての宗派に共通する現象なのである。本願寺はこれでもまだ純粋な方で、例えばこの頃の仏光寺派と高田派は、「善知識(坊主)は阿弥陀仏の代理人である。つまり善知識には人々を往生させる力があるのだ」というロジックを多用していた(時衆の教えと似ている)。しかしこれだと「往生与奪」の権利が坊主にあることになってしまい、親鸞の「絶対他力」の教えとは矛盾が生じてしまうのだ。
ただ注意しなければならないのは、このような教えになってしまったのは、必ずしも教団サイドの思惑によってのみ、確立したわけではないということである。
なにしろ「他力」という概念を維持するのは非常に難しく、それよりは分かりやすく簡単な「偉い坊様の力にすがって往生する」方法を、民衆サイドが求めていたという面が強いのである。だからこそ仏光寺派と高田派は、その勢力を順調に伸ばすことができたといえる。
本願寺はこれまでそうした教えを是としていなかったから、時流に乗り遅れ、廃れていたともいえる。一方、この世の春を謳歌していた仏光寺派と高田派であるが、その副作用として坊主の権勢化・貴族化が進んでいってしまう。遂には「銭を積んで往生を買う」というシステムまで確立してしまい、親鸞の教義との間にますます矛盾が生じていったのである(蓮如はこれを「物取り信心」と呼んで、大変憎んでいた)。
そして、それを疑問に思う人たちがいたのである。いい例が、前記事で紹介した高田派に属していた佐々木如光である。如光は知的レベルの非常に高い人物であったようだから、こうした教義上の矛盾に満足していなかったのだろう。たまたま寺に逗留した蓮如にかねてからの疑問をぶつけたところ、返ってきたシンプルな答えに感動し、彼に帰依したという次第なのである。
蓮如は複雑化してしまった要素を棚卸しして、教義上のリストラ行ったのである。これによって異端的要素を追放、親鸞の教義に立ち帰る形で、改めて教義を定義しなおした。こうした本願寺の新しいシンプルかつ強いメッセージ性が、爆発的ともいえる発展の理由のひとつであったといえる。
ただ、こうしたことを行ったのは本願寺の蓮如だけではく、大なり小なり他の教団もそれぞれのタイミングで行っていることではある(法華宗の「なべかぶりの日親」を見よ)。
そもそも拡大→引き締め→拡大→引き締め、という構造改革は教団に限らず、長生きしている組織ならどこでも行っていることで、そこまで珍しくはないといえる。
本願寺が躍進した理由は、これだけではなく他にも幾つかあるのだ。次回以降の記事でそれらを順に紹介していきたい。(続く)