1480年に完成した山科本願寺の御影堂は、巨大かつ意匠を凝らしたものであった。使用された柱50本は大和から、天井は大津で拵えたものを運び込み、四方の縁などには深草産の杉が使用された、とある。大工・番匠たちもまた、諸国の門徒たちが大量に動員されて造作にあたったのである。

前記事で紹介したように、仏光寺派の門主・経豪は自力では本寺の再興を成し遂げられなかった。彼がどんなに信徒たちに呼びかけても、笛吹けど踊らずで、話は一向に前に進まなかった。これは一般信徒と本寺の間に、半独立的地位を持つ地方寺院がいたからで、要するに「金のかかる本寺の再興に、自寺が持つリソースを割いてもメリットがない」と判断されてしまったからなのである。
一方、蓮如による山科本願寺は着手から一応の完成をみるまで、わずか2〜3年というスピードで行われている。両者の違いは何なのかというと、要するに組織の構造が異なっているのである。
シリーズ最初の方の記事で、本願寺の中央集権度の高さの要因を紹介したことがある。初期の本願寺において、門主・蓮如は末端の門徒たちに対して直接、強力な影響力を及ぼしていた。門主と門徒の間に地方寺院はあるにはあったが、他派に比してその力は限定的であったのだ。
これを可能としたのが、蓮如自ら「六字名号」や「御文章(御文)」を門徒らに下す、という布教方法にあったことも、過去に紹介した通りである。蓮如はその飽くことなきバイタリティで、万を越える数の門徒たちと可能な限り接触し、教化していったのであった。特に彼の前半生においては、こうした傾向が強く見られる。
後半生になっていくと、蓮如は違うやり方で支配権の強化を試みることになる。一族による教団支配の正当化として、「家」の論理を積極的に導入したのである。
21世紀の今でも未だその残滓が見られる、この「家」という概念は意外に新しく、中世に生まれた価値観だ。家父長制を基礎とするシステムで、惣領(往々にして長男)がその家の全てを継承する仕組みになっている。これは財産や権力の分散を防ぐためなのだが、これを正当化する論理として「筋目」という概念がある。
武士の家は、この筋目を大変に重視した。武家においては次男以下の庶子は(惣領が早世した際のスペアとして機能することはあれど)、基本的には家来格として惣領を支える存在でしかない。惣領とその系譜こそが、筋目なのだ。その代わりに一族を支える存在として重用されることになるのだが、本願寺はこれと全く同じスタイルをとるようになる。
本願寺の前身は大谷廟堂であり、これはそもそも親鸞の血脈を(法脈ではない)継ぐ一族が、親鸞の墓所を管理する墓守としてスタートした組織であった。本願寺として寺院化したのは後から、第3世の覚如の代からである。
そういう意味では、「親鸞の血脈である」という一点こそが、数多あるライバルである浄土真宗他派との最大の違いであり、彼らが拠って立つ最大の武器であったといえる。武士の持つ「家の論理」と、極めて親和性が高いのだ。
戦国大名らは庶子や娘を他家に送り込むことで、自家の勢力を拡大・ないしはより深く取り込んでいった。蓮如はこれと同じように己の実子らを、地方寺院の支配者らとの間に婚姻を結ばせるという形で、盛んに送り込んでいる。
蓮如は5人の妻(前妻とは全員死別)との間に、なんと男子13人・女子14人の、計27人の子どもを設けている。ちなみに5人目の妻を娶ったのは72歳の時で、このとき妻は20歳にも満たない年であったようだ。70代の蓮如は彼女に7人の子どもを産ませており、最後の子どもは85歳の時である(何とも凄まじい精力!)。そんなわけで、送り込む弾が不足することはなかった。
かつて言うことを聞かなかった北陸の門徒たちに対しても、こうした手段によって門主の影響力を増大させることに成功している。蓮如退去後、吉崎御坊は和田本覚寺の管理下に置かれている。この本覚寺は蓮如よりはるか前、覚如の時代に本願寺化した寺院で、そういう意味では古い体質を保ったままの寺院であり、多屋衆を代表する有力寺院でもあった。
しかし吉崎の実権は次第に、本泉寺・松岡寺・光教寺の「加賀三箇寺(さんかじ)」に移っていき、北陸の本願寺門徒らもこれに従う形となっていく。本泉寺は次男・蓮乗、松岡寺は三男・蓮綱、光教寺は四男・蓮誓など、それぞれ己の息子たちが差配する寺院なのである。このように親族が支配する寺院を増やし、そこに権限を集めることで中央集権度を高めているのだ。
また蓮如は惣領息子の家族を「一門衆」、それを支える親族を「一家衆」とし、両者を厳然と区別している。ある時、興正寺の蓮秀が一門衆のみ使用を許されている椀を使用したことがあった。それを見た蓮如は怒り、その椀を火吹き竹で打ち砕いてしまった、という逸話が残っている。
こうしたところにも筋目を重視する、武家的な思想が見られる。御家騒動を防ぐためには、必要な措置だったのであろう。
1489年に蓮如は引退を発表する。蓮如はどこかのカリスマ経営者にありがちな「死ぬまで現役として、権力にしがみつく」ような見苦しいことはしなかった。そういう会社は往々にしてカリスマの死後混乱し、分裂するなど散々な目にあうパターンが多い。
蓮如は、自分なしでも次世代が安定して本願寺を継承・運営していけるように、上記のような体制を整えてから引退したのであった。
門主の座は本来ならば、長男・順如が継ぐはずであった。彼は蓮如の吉崎滞在時にその留守をよく守って畿内の門徒を統率し、幕府など対外的な交渉にも実績がある、実に頼りになる男だった。実のところ、仏光寺を本願寺に引き入れたのも彼の力によるところ大であったし、足利義政との酒の席で裸踊りを披露して大ウケするなど(その後、宴席での彼の持ちネタになった)、人の心をつかむのが非常にうまい人物であったようだ。
しかし残念ながら、順如は山科本願寺が一応の完成を見た83年に、41歳で早逝してしまう。酒好きであった、とあるのでそれが原因かもしれない。代わりに蓮如が選んだのが、五男・実如である。
実如は「自分には学がなく、門徒を教化する自信がない」と固辞したようだが、蓮如は「ならば(これまで自分が書いた)御文章に判を押して送ればいい」と答えたという。組織が安定しシステムとして機能している以上、門主自身のカリスマ性や学識はそこまで必要ない、と判断したのである。
とはいえ跡を継いだ実如は、決して愚かな男だったわけではない。彼は弟の実悟に「本山の住持というものは、たとえ箸に目鼻を付けた(レベルの)ような者であっても、門徒たちがみな慕っていると思って敬うものである」と本心を打ち明けている。このように自分の立ち位置というものを、よく理解していた男であった。(続く)