根来戦記の世界

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本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その② 大谷廟堂の寺院化・本願寺の成立

 はじめはその美貌が呼びよせた災難故に、長じてからは叔父による廟堂簒奪に、そして東国の門弟からの留守職認定に苦しんだ覚如は、他者から干渉を受けることに、心底うんざりしていたのではないだろうか。そんな彼が大谷廟堂の独立――つまり寺院化を目指したのは、当然の流れであった。

 というよりも、もっと若年の頃から寺院化を志していた節がある。覚如は26歳の時に、曾祖父・親鸞の伝記絵巻物の制作をプロデュースしており、以降も同様の絵巻物の作成に勤しんでいる。

 こうした動きは墓所を守る子孫がなすべきこととして不自然なものではないが、同時に「親鸞の法脈をも継ぐ意志と資格がある」という周囲にむけてのアピールであり、来るべきその時に向けて布石を打っていると見ることもできるだろう。

 そんなわけで、苦労してようやく留守職に就任した後、覚如はすぐに動き始めるのだ。まず着手したのは寺に伝わる、親鸞70歳の時の姿を描いた「鏡の御影」の修復である。

 

西本願寺蔵「鏡の御影」。国宝である。当時盛んであった「似せ絵」の様式で描かれた、親鸞70歳の時の肖像画。鏡を写し取ったかのように似ているので、この名がついた。当代一流の画家であった専阿弥陀仏の手によるもので、鎌倉期に制作された現存する絵画の中でも、最高傑作のひとつに数えられている。

 

 大谷廟堂は寺でないから本尊がない。代わりに親鸞の遺骨と影像があったのだが、叔父の唯善に強奪されてしまった。そこで覚如はこの「鏡の御影」を宝として掲げることで、本尊の代わりとしたのである。

 なお覚如がこの「鏡の御影」を修復した際、御影の下部にあった文を敢えて墨で塗りつぶしたことが分かっている。潰した部分は、親鸞の師である法然の「選択集」にあった一文と、浄土思想の先駆者・源空を讃えた一文である。

 覚如は、何故こうした改変を行ったのだろうか。どうも法然源空の色を極力消すことで、これまで浄土宗の一門派としてしか見られていなかった親鸞の法流を、より独立したものとして立宗せんとする決意表明なのではないか、とみられている。

 更に覚如は息子・存覚を伴い、越前や伊勢に赴いている。各地の信徒たちを訪れ、親鸞の教えを伝授しているのだ。愛欲に翻弄されながらも長年に渡って学問に励んでいた彼の学識は、既に一派を立てることができるレベルにまで達しており、それを周囲に証明する必要があったのだ。

 就任して2年後の1312年の秋ごろに、覚如は遂に大谷廟堂の寺院化を図る。復旧なった本堂に寺号である「専修寺」の額を掲げることにしたのである。

 ところが、ここでまた横やりが入る。相手は比叡山である。「専修寺」いう寺号はそもそも「専修念仏」という言葉からとられたものなのだが、叡山はかって「専修」という言葉を掲げた法然に対し、強い弾圧を持って臨んだという過去があった。叡山は未だ「専修」という文字にアレルギーを持っていたのである。流石に正面から叡山に逆らうわけにはいかない。覚如はこの時は仕方なく、専修寺の扁額を外している。

 その代わりに、新たな寺号として覚如が掲げたのが「本願寺」なのである。叡山もこれには反対しなかった。これが寺院としての本願寺の始まりということになる。

 こうして本願寺の寺院化を成功させた覚如であるが、問題はまだあった。東国の門弟たちからの干渉を如何に防ぐか、である。

 先述した通り、もともと大谷廟堂は東国の門弟たちからの寄進によって成立した墓所だった関係上、留守職の継承には彼らの許可が必要であった。寺院化したからといってその事実が消えるわけではないのだ。

 そこで覚如は、何とも思い切った手段にでる。なんと覚信尼が書いた「置文」を偽造し(!)、これを新たに発見したことにして、青蓮院に提出したのである。

 彼が偽造したのは「財主覚信専証に申し置く状」という書状で、内容としては「善信尼が御影堂の土地を有する者(東国の門弟らを指す)らに対して送った書状」という態を成したものだ。内容としては、主に以下の2点から成る。

 

1・御影堂の所有権について。「留守職こそが、御影堂そのものを支配する権限を持つ」

2・留守職の継承権について。「留守職は覚信尼の子孫が、代々引き継いでいくものとする」

 

 1324年5月、この訴えが認められ、青蓮院から上記の内容を確認した新たな下知状が本願寺に下されたのである。これを以てして、本願寺は本当の意味で関東の門弟たちから独立し、独自の門流を立てることができたといっていい。苦労人・覚如55歳の時であった。

 しかし覚如の苦難は終わらないのだ。寺院化したばかりであったから、信徒の数が絶対的に少ないのである。

 覚如は京に近い越前における布教に力を入れているが、信徒が急に増えるわけでもなく、本願寺の財政は非常に苦しいままであった。またせっかく本願寺留守職の座を子孫が継げるように整備したものの、長男・存覚に対して2度に渡る義絶をするなど、後継者問題にも苦労している。(続く)