根来戦記の世界

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本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑩ 北陸布教の拠点・「吉崎御坊」の設立 

 1467年、叡山による2年に渡る「法敵認定」がようやく解けた蓮如。しかし苦難は続くのだ。「寛正の法難」の際、蓮如は寺宝である親鸞影像と共に湖南をあちらこちらと彷徨っていたが、堅田に長くいたことがあった。堅田の町には、本願寺老衆である法住が率いる本福寺があり、桶の尉ら熱心な門徒を擁していたから、蓮如にしてみれば安心できる町であったのだ。

 しかしこの堅田が、とある事件をきっかけに叡山と全面戦争になるのである。この大イベントを「堅田大責」と呼ぶ。これに関して記事を少し書き進めてみたのだが、事件の背景を説明するにはまず堅田の町の成り立ちから説明しなければならず、また町の社会構造、その独特の気風、事件のビフォーのみならずアフターまで言及することになってしまい、とても蓮如のシリーズには収まり切れないということが判明したので、この件に関してはシリーズを別個に独立させ、その中で扱うことにする。

 ここでは1468年に堅田の町が大戦乱に巻き込まれてしまい、蓮如親鸞影像と共に堅田から余儀なく避難せざるを得なかったことだけを述べておきたい。避難先は三井寺園城寺)である。

 三井寺延暦寺と同じ、天台宗を奉じる寺院である。延暦寺には最澄のち、円仁・円珍という優れた僧が出たが、それぞれを祖とする派閥が出来てしまい、寺の実権を巡り激しい争いが繰り広げられた。結果、円珍派は延暦寺を出て、新たに三井寺を本拠地としたのであった。高野山根来寺の関係性と似ているかもしれない。

 

 叡山を二分した、円仁・円珍派の争いについてはこちらを参照。円仁の方が円珍より先輩である。それぞれ未完であった天台教義の確立をせんと入唐し、かけていたピースを持ち帰り、見事発展させた。ちなみに2人の仲は悪くはなかったようだが、2人の死後にそれぞれ派閥が確立し、山内の実権を巡って血で血を洗うような抗争が繰り広げられたのであった。

 

 翌69年には、蓮如三井寺の領地であった大津・南別所に新たに顕証寺を建立し、ここに影像を安置、別当を長男である順如とした。この顕証寺はのち本拠を河内国渋川の地に移し、蓮如の六男・蓮淳に任されることになる。(この蓮淳の下で顕証寺は、戦国期に本願寺内において強大な実権を握ることになるのだが、それはまた別の記事で述べる。)

 しかし近畿にいる限りは、どうやっても活動に限界があるのだ。蓮如が新たな御坊を建立しようとしていることを聞いた堅田西浦の五郎次郎という門徒が、「堅田に御坊を構えたらどうか」と勧めたところ、蓮如は「あれが近いぞ」と言って比叡山を指さした、というエピソードが伝えられている。

 そんな時、親戚であり親しい仲であった興福寺別当・経覚から、とある提案を受けることになるのだ。その提案とは「越前国・河口庄細呂宜郷(ほそろぎごう)に興福寺の寺領があるが、この細呂宜郷に本願寺の道場を建立し、北陸布教の要としたらどうだろうか?ついでと言っては何だが、年貢の徴収の方もお任せするから、送ってくれ」というものであった。

 興福寺寺領である細呂宜郷は、要するに地元の勢力による押領が続いており、年貢が途絶えがちだったのである。経覚にしていれば、このまま持っていてもどうせ年貢は入ってこない。ならば一部を蓮如に渡して、残りの年貢徴収を任せてみよう、という思惑だったのである。そしてこの提案に蓮如は乗ったのであった。

 もうひとつ、この提案に蓮如が乗り気になった理由があった。北陸に本願寺の寺院は幾つかあった――傑物であった第5世・綽如が越中国・井波に瑞泉寺を建立し、教線を伸ばすことに成功していたのだ。蓮如の父である存如が死んだとき、この瑞泉寺の住持には存如の年の離れた末弟・如乗が就任していたが(蓮如にとっては叔父にあたるが、わずか3歳違いであった)、彼の尽力により蓮如が何とか第8世に就任できたのは、過去記事で紹介した通り。

 瑞泉寺を始めとするこれら北陸の寺院群は、主に蓮如と血縁関係にある一門衆が住持となっていた。そして越前国にも和田本覚寺という本願寺の末寺があったのだが、実はこの寺の住持である蓮光は、細呂宜郷の荘園代官の一員を務めていたのである。そういう意味では、有形無形のバックアップが期待できたのであった。

 こうして蓮如は越前・吉崎の地に降り立ったのである。1471年4月のことであった。「豺狼が住む地」と評されるほど、何もない荒涼とした地であったようだ。まずは北潟湖畔にあった、吉崎山の頂に道場を建立する。

 しかし驚くなかれ、蓮如がこの地に居を構えたと知った信徒たちは、続々大挙して参詣に訪れはじめたのである。その数たるや「万を越えた」と記されるほどで、彼らのための宿泊施設である他屋が軒を連ね、その軒数は200~300にも達したという。ド田舎に巨大な寺内町が、突然発生したのである。

 

浄土真宗親鸞会HP」より転載。吉崎御坊最盛期(1506年頃か)の姿を描いたもの。三方を湖に囲まれた要害の地で、城塞都市であった。地形は違えど後に建てられることになる山科本願寺の、そして石山本願寺のプロトタイプといってもいいかもしれない。江戸期の記録であるが「山の斜面から頂にかけて48棟、山麓に150棟、合計で約200棟の多屋があった」とある。これらの多屋の経営は「大坊主」と称される、和田本覚寺をはじめとする地方寺院らであり、大変に儲かったであろうと見られている。

 

 この吉崎御坊の建立こそが、本願寺のビックバン的拡大の契機となるのだ。日本においてこれまでひとつの教団がここまで急拡大し、強大な勢力を持ったことはなく、おそらくこれ以降もないだろう。全てはこの吉崎御坊から始まったといえる。

 そしてこの本願寺の急拡大の裏には、あるひとりの男がキーパースンとして深く関わっているのだ。その男の名を、下間蓮崇(しもつまれんそう)という。(続く)