根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

根来寺の行人たち~その② 土豪と行人方子院

 多くの戦国大名の成立過程というものは、概ね以下のようなものだ。

①守護や守護代、国衆の中から、力がある家が台頭してくる。

②周辺の国衆を滅ぼすか、傘下に入れるかなどして、その国を統一する。

③独立性の強い国内勢力を粛清、再編成しつつ他国へ侵攻する。

 だが紀泉においては、①はできても②ができなかった。なぜか。日本の権力の中心地である京に近いため、強大な力を持つ大名(細川・三好など)の影響力を排することができなかった、というのもある。だが、もうひとつある。それは根来寺があったからなのだ。

 ある程度まで力をつけた土豪は、近隣の敵対勢力を征服ないし従属させて、国衆と呼べる存在にレベルアップする。だが紀泉においては、国衆になる前の土豪の段階で、自ら領地を根来寺に寄進して、その庇護下に入ってしまうのだ。結果、寺領が増えていった根来寺が、大きな力を持つようになった。つまり根来寺が国内の統一を果たすような存在の成長を阻害したから、という理由が大きいのである。

 己の持つ土地を根来寺に寄進した土豪は、引き続きその地の根来寺代官となるから、実質的な支配権は握ったままだ。代わりに得るのは、宗教を背景とした威信と、そこでできた人脈などの繋がりだ。そうすることによって、近隣の敵対勢力よりも有利な立場に立てるのだ。

 また権威のある大名が他国より侵攻してきてこれに対抗する場合、ただの土豪連合では正統性の面で心もとない。根来寺レベルの公権力、という背景があれば、それに対抗することができる。位負けしなくなるのだ。

 土豪たちは土地を寄進すると共に、本山に子院を建立した。地元と根来寺との繋がりは、この子院を通じて行われた。このようにして増えていった行人方子院だが、大きくなってきたものの中には、子会社的存在の子院を建立して、数を増やしていくものも出てくる。結果、寺内には数百に及ぶ行人方子院が乱立することになったのである。

 

岩出市根来寺遺跡展示施設」の展示板より。
往時の根来寺境内の様子がよく分かる。
🔲のひとつひとつが、子院にあたる。

 

 戦国期の根来寺は、宗教を分母とした土豪の連合体のような一面を持っていた。それが根来寺を中心にした同心円状に、紀州北部~和泉南部にかけて広がっていったのである。土豪連合体ではあったが、バックボーンとして権威ある宗教があったので、正統性のある公権力として認識されていた。紀泉において、これに不参加、ないし同盟関係にない土豪は次第に没落していった。

 畠山家は根来、そしてその隣に雑賀があったせいで、紀泉の完全支配を果たすことができなかった。だが言い方を変えると、紀北を根来と雑賀が押さえていてくれたおかげで、侵略者が北から入ってこられず、守られていたともいえる。

 逆にもし根来寺がなかったとしたら、紀中から紀南にかけて勢力を築いていた湯川氏辺りが下剋上して、畠山を追い出し戦国大名化していたかもしれない。いずれにせよ、戦国末期には畠山は地域の一勢力でしかなくなっている。そして根来寺の滅亡と共に、畠山家も滅びるのだ。

 余談ではあるが、畠山家は曲がりなりにも戦国末期まで命脈を保つことができたが、もっと酷く零落してしまった家として、三管領筆頭であった斯波家がある。

 斯波家は越前・尾張遠江を本拠地とする名家であったが、越前を朝倉家に、尾張織田家に、遠江を今川家に奪われてしまう。その落ちぶれ具合たるや酷いもので、1544年12月にその末裔、斯波義信が石山本願寺を訪れたときの記録が残っている。

 それによると義信は「本願寺が支配している加賀の国の所領を、斯波家に少し分けて欲しい」という、実にあつかましい願いをしてきたのである。返事に困った門主の証如は、その時は何とかお引き取り願ったのだが、義信は年の暮れに再び本願寺に現れたのである。そして「望みが叶わなければ、覚悟を決める」と騒ぎたて、筆と紙を用意し、遺書を書く素振りを見せはじめたのだ。困り果てた証如は、嫌々5貫文(今の価値で50万~ほどか)を渡して引き取ってもらうことにする。首尾よく小銭をせしめた義信は、受け取った瞬間に喜色満面、ほくほく顔で帰っていった――とある。

 ・・・話が逸れてしまった。前述したように、根来に所属している土豪は、あくまで緩い連合なので、仲の悪い近場の土豪同士が争うこともあっただろう。寺内において、多くの争い「出入り」があったことは分かっているが、もしかしたらその原因のひとつは地元での諍いにあり、それが寺内における代理戦争のように発展するようなケースもあったかもしれない。(続く)