根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

根来寺の行人たち~その① 行人とは

 紀州根来寺は、現在の和歌山県岩出石市に今もある、新義真言宗の総本山である。開祖は覚鑁上人。「根来寺」という名の寺は中世からあったが(古くからその地にあった豊福寺が、根来寺と呼ばれるようになっていた)、当時の人々の概念としては、そこに集まった寺院群の総称を「根来寺」と呼んでいたようである。寺院の数は数百を越え、抱える僧兵は数万、石高は72万石に達した、といわれている。

 1570年にネーデルランドのオリテリウスが作成した世界地図には、「Negrou」として、その名が大きく記載されている。これは当時のポルトガル宣教師・ザビエルらが本国に送った報告書の影響と考えられる。ザビエルが訪日した時期は、まさしく根来寺の最盛期でもあったのだ。

 

オリテリウスの世界地図。JAPANの右下に
Negrou、とある。

 当時の世界地図にも載ったほどの根来寺。その力の源泉は何か?それを知るためには根来寺の歴史を紐解いていく必要がある。

 高野山において伝法院を率いる覚鑁上人に、鳥羽上皇が根来の地にあった4つの荘園を寄進したのが1140年のことだ。覚鑁はこの地において、神宮寺と円明寺を建立する。遅れて13世紀後半に、高野に残って覚鑁上人の教えを継いでいた伝法院が移転してきて、根来寺の本格的な発展が始まる。

 覚鑁上人は真言における、教相(理論分野)における革新の人であったから、その衣鉢を継ぐ根来寺では教学の研究が進んだ。全国から学僧が、最新の教学を学びに集ってきたのである。

 だが根来寺の力の源泉はそこではない。より世俗的な力、つまり富と武力にあったのだ。それをどのようにして手に入れたのだろうか?根来寺には数百の寺院が存在したという。実はそのうち、かなりの数が「行人方」子院だったのである。

 行人、とは何か。一言で言うと下級僧侶のことである。学侶僧が正式なトレーニングを積んだ僧侶だとするならば、行人僧はそれをサポートするアシスタントである。例えば、儀式に必須のお供え物を整えておく。賄い方として食事を用意したり、清掃を行う。また荘園の管理や、武装しての警備など。こうした行人僧の働きなしでは、学侶僧の修行や生活は成り立たなかった。

 それでは何故、根来においてそんなに多くの行人方の子院があったのか。次にそれを見ていこう。

 元々、紀州三管領家のひとつ、名門畠山家の本拠地のひとつであった。しかし畠山家は、応仁の乱の際に2つに分裂してしまい、その勢力は大きく弱まってしまう。その後30年近く、畿内を舞台に「政長系」と「義就系」とで激しく争うことになる。紀州は一貫して政長系が押さえており、根来も終始、政長系と同盟関係にあった。(1460年には根来寺の軍勢が義就軍を撃破しているが、この戦闘により義就方はなんと、700人もの戦死者が出ている)

 しかし両畠山の長引く戦乱にうんざりした、畿内の国衆は次第に独立色を強めていく。山城に至っては国を挙げての一揆が起き(1485年の山城国一揆)、両畠山家を一時山城国から追い出してしまうほどの動きを見せる。こうした混乱の中、着々と勢力を伸ばしていったのが根来寺である。根来寺周辺の独立性の高い国衆たちが、畠山や細川などの大名家の侵攻から逃れるために頼った先が、根来寺だったのである。(続く)