根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

印地について~その③ 日本古代編

 まずは印地の語源について。「石打ち」から転化して「いんぢ」となり、それに後から漢字をあてたものらしい。「印地」のほか「印字」「因地」「伊牟地」とも記される。

 既に弥生時代前期の遺跡から礫が出土している。石製ないし土製のものだ。古来よりずっと礫が使われていた証左だが、文献がない時代なのでどのような使われ方をしていたか分からない。スリングである「投石紐」の出土例もないが、植物繊維ないし革製だっただろうから、残らなかったのだろう。

 「印地」が出現する最も古い文献上の記録は、平安期中頃の997年4月16日に書かれた「小右記」である。「藤原一門に連なる貴族の一員が、花山天皇に仕える雑人たちによって飛礫を打たれた」旨の記述があるのだ。また同じ「小右記」の1012年5月24日に「藤原道長の一行が、山法師らに礫を激しく打たれた」ともある。

 いずれも「無礼があって」礫を打たれた模様だ。ここでは双方ともに、相手に対して罰を与える、という意味合いで礫を打っている。面白いのは後者で、よりにもよって相手は「この世をば~」で有名な当代一の権力者、かの藤原道長である。打ったのは叡山の僧兵らだ。そしてこの事件に対して、僧兵たちを統べる立場にいる天台座主は「飛礫は仏が投げたものと思え。礫に当たった奴は、恐れ入れるべし」とコメントしたそうな。

 ちょうどこの頃から、意気盛んな寺社勢力は朝廷に対して「強訴(ごうそ)」を繰り返し始める。「強訴」とは、神輿や神木を持ち出して、京の御所の門の前に放置することである。現代の我々からすると、玄関先にそんなものがあったところで「邪魔だな、これ」くらいにしか感じられないが、当時は違ったのである。神輿や神木は神聖なもの、これに触れたり勝手に動かしたりすると、恐ろしい天罰が当たるのだ。平安期の人々は、祟りを何よりも恐れていた。強訴はこうした畏れや祟りをうまく利用した、ストライキのようなものである。御所の前にこんな畏れ多いものがあると、京の政治活動は全てストップしてしまった。

 

 

滋賀県琵琶湖文化館蔵「山法師強訴屏風図」より。江戸時代に描かれたもの。神輿を担ぎ、京に押し入る僧兵たち。

 

 この強訴が行われる際、神輿やご神木の入洛を阻止せんとする人たちに対して礫を投げたようだ。やや後年の記録になるが「神輿を奉ずる際に、勅使一行に対して礫を打った」というものや、「神輿の入洛を阻止しようとした番衆たちが、飛礫で散々にやられた」などという記録が残っている。このように強訴と飛礫はセットで行われていたと思われる。打っていたのは「神人」と呼ばれる、神社に隷属していた人たちだ。

 「神人」とは何か。一言で言うと、寺社に仕える職能民のことである。市場がまだ発達していなかった古代~中世初期においては、例えば寺社は荘園内において、ほぼ全てのものを自力で賄う必要があった。

 畑を耕す農民をはじめ、生活必需品をつくる各種手工業者、各種の取引・交渉を行う人、年貢の取り立て人に運送業務者、芸能者に至るまで。つまり生産・製造・運搬・サービス業などに関わる人材全てを、寺社内に抱えていたのである。そのうち、技能を以て仕える職能民は「神人」「寄人」などと呼ばれ、寺社に隷属する立場であった。

 中には僧兵と同じく、警備・取り締まり・破却などの業務に携わっていた、武装する神人もいた。礫を打っていたのは、主に彼らではなかろうか。なお、後年になると彼ら神人たちは、単なる職能民から各種の専売業者化――例えば塩の専売に携わる大山崎神人になって座を形成したり、警備・清掃業務を行う犬神人になったり――が進み、それぞれ専門性を深めていくと同時に、階級的な分化も行われていくことになるのだが、それはまた別の話。とにかく、このように印地は「神意を示す天罰」として扱われていたのである。

 軍記物だが「平家物語」にも出てくる。後白河法皇源義仲に対抗するために、園城寺の僧兵らと共に動員するのが「むかへつぶて、いんぢ、いふかひなき辻冠者ばら、乞食法師ども」なのである。ポイントは僧兵たちと共に動員されているということだ。その多くは、神人たちだったのではないだろうか。(続く)