拙著「京の印地打ち」で登場する白河印地衆。作中では、強烈な個性を持つ悪党の集団として描いている。この白河印地、軍記物である「義経記」に出てくる集団だ。「義経記」は平安末期が舞台である。この物語の中で、義経を助ける偉大な印地打ちとして「鬼一法眼」が登場する。実在した人間とは思えないが、彼は京の剣流の元祖である「京八流」の開祖としても伝えられている。
この鬼一法眼の一番弟子にして娘婿に、「湛海坊(たんかいぼう)」という印地の達人が出てくるのだ。彼は北白川の出、とされている。これも実在した人物とは思えないが、モデルはいただろう。そのモデルは白河にいた神人だったと思われる。
また同書には、在京している義経を暗殺するために、土佐坊昌俊が手勢百騎の他、「白川印地五十人」を率いてその寝所を襲った、ともある。これらも神人らであるとするならば、僧兵である土佐坊昌俊が率いるのに相応しいといえる。
ただ「義経記」は後年になって(南北朝末期~室町初期辺り)成立した物語性の強い軍記物なので、平安末期のことをどこまで正確に伝えているかは疑問に残る。その時代に見られる事柄を、昔もあっただろうということにして、創作してしまう場合も見られるからだ。
確かに一番信頼できる古い記録として確認できるのは、鎌倉時代、1263年に発せられた「公家新制」である。この中には「白河の薬院田の辺りにいる、印地と称する悪党」との記載がある。この時代から既に、白河印地は悪名高かったようだ。また時代が下って室町時代、1427年の「満済准后日記」にも、祇園御霊会において「京の者」と「白川イムチ」の印地合戦があって、双方3人ずつが死んだ、とある。幕府の軍兵がこれを抑えるために現場に赴いたところ、制圧するどころか向こうから矢を射かけてくる有様で、傍観せざるを得なかった、とある。流石は白河印地、印地のエリートである。
その他、各地にも印地の党はあった。例えば鳥羽。1443年の「看聞御記」に「鳥羽で行われた節句の向かい礫で、横大路の者が殺された」とある。この時は復讐が復讐を呼び、また周辺の郷がそれぞれに味方するなど、鳥羽vs横大路の合戦に近い大騒動になったらしい。
また南北朝時代の「新札往来」には「白河鉾の入京の際、ややもすれば六地蔵の党と喧嘩を招く」といった記載がある。室町時代中期の「尺素往来」にも、ほぼ同じような内容の「白河鉾の入洛の際、六地蔵の党が例のごとく印地を企て喧嘩を招いた」との記載がある(前書が種本になっているだけかもしれないが)。白河党と六地蔵党との間に、どんな因縁があったのかは分からないが、さぞかし激しい向かい礫が繰り広げられたことだろう。この他、記録に残っていないだけで、後世に伝わることなく埋もれてしまった印地の党は、たくさんあったに違いない。
さて拙著「京の印地打ち」は、戦国時代の京を舞台にした印地打ちの話である。主人公は「六条衆」という印地衆に属していることになっている。印地の党、ではなく印地衆、というのがミソだ。これは集団での印地戦を「趣味」として行動する衆である。特に主人公が属する「六条印地衆」は地縁・血縁によらない愚連隊的集団として設定してある。このような集団が存在した歴史的事実はない。あとがきにも書いたが、宗教的な繋がりなしに、こうした愚連隊的集団が戦国期の日本において存在することは、あり得なかっただろう。
ただ、白河印地党をモデルとした「白河印地衆」や、声聞師の集団である大黒党を母体とした「大黒印地衆」のような衆ならば、似たような組織があり得たかもしれない・・と想像を逞しくするのも、また楽しからずや。(続く)