根来戦記の世界

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秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑥ 太田城水攻め堤防

 さてこの太田城だが、現在の和歌山駅のすぐ西側にあった。城内と推定される場所からは、日用品として使われた土器などが出土しており、生活の場であったと考えられている。古くからある環濠集落から、城に発展した城市だったのだろう。瓦なども出土していることから、城内には寺院なども建っていたと思われる。フロイスの報告にも「この城郭は、まるでひとつの町のようであり~云々」という、それを裏付ける記述がある。

 宮郷に秀吉軍が入ってきたのが3月23日で、前記事の戦闘が行われたのが25日あたりのようだ。戦闘の後、この太田城に対して秀吉は水攻めを行うことを決定するのだが、築堤作業開始が3月28日以降であると推定されている。その後、突貫工事によって4月5日には堤が完成したらしい。「立案→計画→工事→完成」まで、なんと約10日間(!)という驚異的な短期間である。

 宇民正氏による論文「『太田城水攻め』の土木技術面からの検討」によると、この工事に使われた土の量は20万2千㎡にも及んだという。工事期間を1週間としてこれを人力に換算すると、毎日15万人ほどが工事に動員されたと考えられるという。各大名に堤造りを競わせ、担当箇所の堤を一番早く築けた家には褒賞を与える、という手段を取ったようだ。

 それにしても立案に3日、工事に7日の計10日間、全て含めた上でのこの日数である。地形の調査をいつ、どうやってしたのか?建築計画は誰がどうやって決めたのか?どこからどのように人を動員したのか?土木に使用する道具は?土はどこから運んだのか?住むところは?食事の手配は?糞尿の処理は?数多あるこれらの問題を全て解決し、わずか10日間で工事を成し遂げることは本当にできたのだろうか?

 こうした疑問を持つのも当然で、この水攻めは巷間伝えられている程の規模ではなく、より小規模なものだっただろうという論(額田雅裕氏「地形学・歴史地理学から見た太田城水攻め」)も過去に提起されている。

 

現在の地形に当時の状況を当てはめたもの。ご覧の通り、長大な堤防である。太田城の大門前を流れていたので、その名がついた旧大門川(青で示した線)は、現在は流れが細く一部は暗渠になってしまっているが、当時は流量も多く川幅もかなりあった。ちなみに先の額田氏の論だと、太田城はやや東(地図上だと右)にずれた、旧大門川の西側にあったとされている。そこだと地形的に高所に囲まれているので、工事量が遥かに少なくて済む、ということらしい。

 

 しかしこの論はそもそも「この規模の工事がこんな短期間にできるはずがない」という前提から出発しているので、これが正しいとするならば太田城の位置のみならず、規模まで大幅に縮小して(下手したら5分の1、つまり2割ほどの大きさにしかならなくなって)しまう。また文献で示される数多くの事柄との整合性がなくなってしまうという、より大きな問題が発生してしまうのだ。

 例えば地図上にオレンジ色で示した「横堤」の存在である。これは秀吉の侵攻前から存在した治水用の堤であったと考えられているもので、水攻め時にはこれにまつわるストーリーが伝えられているのだが、額田氏の論だとそれらは存在しないことになってしまう。

 また宇民正氏によると、この横堤の存在があったことで、水攻めには二段階のプロセスがあったと推定される、とのことである。まず第一段階として、導水が始まるも横堤に阻まれて、そこから東の部分(地図上では右)がまず水で満たされる。その後、横堤を越えて残りの西側にも水が流れ込み、堤防内全てが満水となる。これが第二段階である。つまり導水が始まっても第一段階では、横堤より西側の堤(地図上では左、逆コの形をした部分)は2日間ほど使用されなかったはずなので、その部分の工事はそれだけ延長して行えたはず、とのことである。

 やはり通説通りの規模での土木工事であった、というのが正しいようだ。雑賀ではここ以外に大きな戦闘もなかったので、動員した兵士をそのまま工事の人員に転用したと考えれば、人や兵糧の手当てはつく。また戦国の軍隊にとって、戦時の陣地構築や付城を築くなどの普請行為は普段からやっていたことであった。彼らは土木工事に長けた集団だったから、現代人の我々が考えるほどハードルの高いものではなかったのかもしれない。また既に備中高松城攻めで、大規模な水攻めを経験していたことも大きい。秀吉の帳中には、堤防建築のノウハウを持つテクノクラートの集団が存在していた、ということだろう。

 とはいえこの規模の工事を10日間でやったわけであるから、やはり凄いのだ。流石は天下人というべきか、驚くべきプロジェクト遂行能力である。しかしながら詳細は次回述べるのだが、やはり突貫工事には相当の無理があったのである。(続く)