四条河原にあった天部であるが、正確に言うと天部と賀茂川は、堤によって仕切られていたようだ。古代末から中世にかけて、賀茂川の西岸沿いには段丘が形成されつつあった。氾濫から身を守るための堤が、時間をかけて築かれていったのだろう。
この堤は後年、秀吉の京都改造時に「御土居」として増改築されることになる。そこを加味すると、天部と河原の位置関係は下のイメージ図のようになる。
上記の通り、天部は四条河原とは堤で仕切られていたことが分かる。同じ河原者の中でも貧富の差があり、貧しい者や新参者などは堤の外側、文字通り河原そのものに居住していたと思われる。
また図中の灰色で示した部分は、そこが堤の高さとほぼ同じであることを示している。これは地面の高さが違ったのではないか、という筆者独自の推測による。北からそのまま堤が伸びてきた場合、四条橋へと通じる道が堤によって塞がれてしまう。この道は繁華街へとつながる大通りだったので、わざわざ堤を上り下りしたとは思えない。また当時の絵を見ても、四条通りを分断するような堤があったようには描いていないのである。
なので筆者は、天部より北と西の通りを含む、地面のレベルそのものが、1~2mほど高かったのではないかと考えている。河原から西の地面のレベルが堤の高さとほぼ同じであった、ということである。これなら四条通から橋へ続く道は塞がれることはない。河原とは緩い坂道で繋がっていたのではないだろうか。
天部そのものは「堤に囲まれていた」ことから、地面レベルは河原と同じく低かったと考えている。四条通から天部への出入りをするには、階段を使ったのではないだろうか。作中でもそのような表現になっている。
いずれにせよ、天部は堤に守られていたことにより、長雨程度の増水ならば、容易に水没することはなかったと思われる。とはいえ規模の大きな洪水が発生した場合には、天部そのものが水没してしまったこともあっただろう。故に建っていたのも、簡素な小屋ばかりだったと思われる。みやこに流入してくる難民は常にいただろうから、人口密度は高く、家屋も密集していただろう。
また天部の南には蓮池があった。五条坊門から高辻にかけての河原にあったこの蓮池が、堤の内外のどちらにあったかは分からないが、作中では堤の外に置いてある。だとすると、この大きな池は洪水によって、或いは季節によってその姿を容易に変えたであろうことが想像できる。(続く)