河原者はどうやって食っていたのか。過去の記事で触れたように、彼らの職域は実に多岐に渡るのだ。藍の染物の他、土木、屠殺、皮はぎ、清掃、刑の執行者など。
必ずしも専業ではなく、複数の業務を掛け持ちしていたようである。ただ職種によって――というよりも人によっては、専業化が進んでいたものもあったようだ。例えば「山水河原者」、つまり庭師の仕事に就いていた者の中でも、名人と呼ばれる者などがそれである。彼らはやんごとない場所で、やんごとない人々に接する機会が多かったので、穢れの度合いが多い仕事には従事していなかった可能性がある。これについては後の記事で述べる。
さて多くの河原者が住んでいた四条河原は、古くから祇園社の支配下にあった。四条河原者には手工業者である「四条細工丸」という集団までおり、社の修繕や用材の確保、穴掘り作業などに従事していた。彼らは優れた土木・建築技術を持っていた技術者集団でもあったのである。
興味深い河原者の名が、文献上に残っている。
まずは庭師の又四郎。彼は山水河原者だ。彼の祖父を善阿弥という。善阿弥は天下一の腕前を持つ庭師であり、興福寺中院の造園に当たった他、足利義政の元で銀閣寺庭園のプランニングにも関わっている、作庭の名人であった。
義政は彼の才を深く愛したようで、善阿弥が病で倒れたときには、枕元まで貴重な薬を届けさせ京の人々を驚かせた、という逸話が残っているほどだ。
そんな偉大な名人を祖父を持ち、山水河原者の一族として生まれた又四郎は、自身もやはり庭師として働いていた。そんな彼が1489年6月、相国寺鹿苑院において高僧の景徐周麒(けいじょしゅうりん)と交わした会話が、記録に残っている。
それによると又四郎は庭松を洗った後、懐より一冊の書籍を取り出した。植樹と配石について、いつ作業を行えばいいのか、月日の凶兆を記した内容だったという。これにより当時の造園作業は、風水的な決まり事に則って作業されていたことが分かる。
その中の末尾に難読の文字があったので、周麟に解読して欲しいと頼んできたのである。文盲があたりまえの時代であり、字が読めるだけでも凄いのだが、彼と会話を交わすうちに、こと造園に関して並々ならぬ学識の持ち主であることが分かってくるのだ。
そこで周麟は、「以前に南禅寺に梅の樹を植えたことがあったが、これを枯れさせぬようにするためには、どのような工夫をすればよいか?」と聞いたところ、又四郎は「ひとつの「偈(げ)」(仏教の儀式に使用される法文)を記して、木の根元に埋めておけばよい」と答えた。
そこに埋めるべき法文を、その場にいた近習の僧が書き記したところ、なんと又四郎はその漢字の誤りを指摘してきたのである。その僧は「樹」とすべき字を、「澍」と記していたのだ。
この時代、正式なトレーニングを受けた僧は知識階級である。又四郎は、そんな僧の漢字の誤りを指摘するほどの教養の持ち主だったわけだ。だが周麟が感心したのはそこではなかった。
又四郎は言う――「自分は生きものを殺し、屠ることを業とする系譜に連なる生まれである。それを悲しむが故に、せめてものの命は誓ってこれを取らないことにしている。また財を追い求める心も持たないようにしている」と。そして実際に、当時高価であった蚊帳を道で拾った時には、落とし主を探してわざわざ届けたが、その商人は会うたび彼に礼を述べ続けたという。
そんな会話を又四郎と交わした周麟は、その日の日記にこの出来事を記した後、末尾に「又四郎、それ人なり」と書いて締めくくっている。生き馬の目を抜くような戦国の京に、このような高潔な人間がいたのである。のち又四郎が出家して周麟に法名を請うた時、選んで与えたのは「慈福」という名であった。彼にこそ、真にふさわしい法名であろう。
このような河原者は又四郎だけではない。山水河原者は、総じて教養が高かったことを伺わせるエピソードは他にもある。例えば方形の庭に木を1本だけ埋めるのは「困」の字に通じるため、造園時には忌むべきことだが、必ずしもそうとは限らず、と言った山水河原者がいる。
曰く「もしその木が桜であり、家の主が女性であるならば、陰陽相対するに尤も相性がいい」。つまり陰陽思想に則って考えた場合、「困」の字義を超える効果がある、ということだろう。そんな議論で、学僧を唖然とさせる河原者もいたのである。(続く)
応仁の乱の最中、銀閣の建立に携わった番匠・三郎右衛門を描いた作品。大変しっかりした取材をしていて、当時の大工の技術など詳細に描かれている。岩井さんの作品はこれが初めてであったのだが、他にも読んでみようと思う。又四郎の父・小四郎の名前だけちょっと出てきます。