さて拙著に出てくる、天部である。てんぶ、或いはあまへ、とも読む。天分村、また余部とも余部屋敷ともいう。天部は河原者たちが住まう村であった。この時代、天部は四条河原にあった堤の内側にあった。(秀吉の京都改造で、のち三条の鴨川加茂川東岸に移転。)
その成立はいつなのだろうか。鎌倉時代の絵巻物「天狗草紙」の中で、その存在が既に示唆されている。しかし、源流はもっと昔まで遡ることができるようだ。実は中世における天部の範囲は、860年に藤原良相が居宅のない一族の子女のために設置した「崇親院」の所領の範囲と、ほぼ重なっていることが研究により分かっているのだ。その範囲は今で言うと、南北は四条通りと仏光寺通り、東西は寺町通りと河原町通りに囲まれた、広大なものであった。
戦国期の京を描いた「洛外名所図」「東山名所図」にはそれぞれ、天部の様子が詳細に描かれているが、その風景は酷似している。目隠しのため、通りに廻らされた竹垣と竹藪。中には藁ぶき・板葺きの家屋が建っている。そして石敷きの広場。そこでは女性が、桶の中の布を扱う図が描かれている。
これは河原者の生業のひとつであった、藍の染物を描いた場面と見られる。彼女ら(双方の図とも女性が描かれていて、男性はいない。絵画で確認する限りでは、何故か染めの作業には男性は関わっていなかったようにみえる)が行っていたのは、藍の生葉染めである。
これは生の「水藍」と呼ばれる半水生の葉藍を収穫、それを布と共に木桶の中に入れ、手で揉みながら染める方法である。当時「四条の青屋」と称されていたほど、メジャーなものであった。天部の中央部分には、広い石敷きの広場があったことが分かっている。ここは染色する作業場であり、染布の干し場としても使われていたのである。
水藍は夏期に収穫される。藍は低湿地であった九条付近で多く採れた、と記録にある。九条に限らず、加茂川に沿って栽培されていたのではないだろうか。なお採った生藍は、すぐに使わなければいけない。生葉染めでは、新鮮な藍葉を使わなければ染めの色が悪くなってしまうのだ。きっと天部の者たちが総出で行う、賑やかな季節の風物詩であったことだろう。
なお広場には、染物を干すための枝付きの竹が並んでいた。この竹製の物干し竿を「もがり」と呼んだ。拙著「京の印地打ち」では、この大きな石敷きの広場そのものを転じて「もがり」と呼ばせている。また染め作業が行われる様子も少しだけ書いたが、作中の時期は旧暦の5月、今の暦になおすと6月上旬の梅雨入り直前の時期だから、染め作業を行うには少し早すぎたかもしれない。
なお江戸期には「紺屋」という染色業者が成立しているが、彼らは青屋と違って賤民視されていなかった。どうも紺屋は青屋から派生したものではなく、新技術(海外から?)を基に新しく発生した職種だったようだ。原材料は同じだが、青屋とは異なる技術による染め、ということで別物と考えられたようである。
両者はどう違っていたかというと、生葉のみを使った簡易的な染めであった「青屋」に対して、「紺屋」の方はもっと手が込んでいて、収穫した藍を発酵させ「スクモ」を作り、それをさらに乾燥し、球状にまとめた「藍玉」というものを作るのである。
「藍玉」は長期保管と運搬が可能だったから、通年に渡って染色作業ができた。また質的にも優れていたから、微妙な色合いを表現できたのである。この新しい技術を使った染色業者の活動として、大阪において1615年に紺屋仲間の組織が設立されているのが確認できる。
だが京における紺屋仲間の成立は1756年であり、大坂に遅れること140年以上であった。これはつまり、京においては江戸期以降も「青屋」が染めを行っていて、その既得権益を侵すため「紺屋」の進出が遅れた、ということかもしれない。
前述したように藍の生葉による染め作業は、初夏に行われる季節性の作業であった。青屋はこの仕事だけで食っていたわけではない、ということになる。河原者の普段の仕事として、土木、清掃、葬送、刑の執行役、屠殺などがあった。
特にこの石敷きの広場を使用していたであろう仕事に、牛馬の皮はぎがあった。剥いだ後の皮は、なめしと干す作業が不可欠であったから、この広場は通年で使用していたと思われる。天部にはこの石造りの広場以外にも、小規模な干し場が、そこかしこにあったのではないだろうか。(続く)