根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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2022-01-01から1年間の記事一覧

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑧ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(上)

これまでの記事にも何度か名前だけ登場したが、王直と並び立つほどの大物として、徐海という倭寇の親分がいる。若い頃、叔父の借金のカタに人質として豊前に住んでいた元僧侶で、日本では明山和尚と名乗っていた人物である。彼は実に評判が悪い男である。子…

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑦ 海雄・王直の死

さて、ここまで倭寇の大物プロデューサーの代表格として王直を紹介してきたが、実は彼は無実だったのではないか、という説がある。略奪をしたのは、あくまでも彼の元部下たちであって、彼自身は関わっていなかった、というものだ。 瀝港(れきこう)が陥落した…

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑥ 倭寇 vs 明の軍隊

倭寇はその主体が日本人だったり、中国人だったり、はたまたポルトガル人だったりしたわけだが、果たして彼らはどの程度、強かったのであろうか。「そりゃ、集団の性格と規模によるでしょ」という突っ込みは正しいのだが、それを言ってしまうと話が終わって…

著作について~その④ 1巻の表紙を変える・完成しました! & 1巻と2巻を期間限定で0円で配布します!

遂に完成しました!根来戦記第1巻、「京の印地打ち」の新バージョンの表紙になります! 本文中にある、1シーンを再現してもらいました。5月5日の「節句の向かい礫」で次郎ら六条印地衆が、悪名高い白河印地衆と礫の打ち合いをしている場面になります。次…

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑤ 倭寇たちの略奪ツアーの行程

こうした倭寇の略奪船団はどの程度の規模で、どのようなルートを辿り、どう行動したのだろうか。典型的なパターンを見てみよう。 まず倭寇の親分たちが、南日本を中心とした各地で兵を募る。それぞれ懇意にしている地域(縄張り?)があったらしく、前述した…

後期倭寇に参加した根来行人たち~その④ 嘉靖(かせい)の大倭寇

さて、後期倭寇である。明が密貿易の本拠地である双嶼を撲滅させた。その結果、食えなくなった密貿易グループによる略奪が激化する、という逆効果をうむ。そして日本に居を移した王直や、若いころ大隅に住んでいた徐海を筆頭に、鄧文俊、林碧川、沈南山など…

後期倭寇に参加した根来行人たち~その③ 日本に本拠を置いた王直と、杉乃坊算長

双嶼が壊滅した時、王直はどうしていたのか?実は彼は、既に双嶼に見切りをつけていたらしく、1547年頃から日本の五島列島に拠点を移していた、という説がある。それによると王直は、本拠を双嶼に置いていなかったことを幸い、蘆七や沈九、陳思盻(ちんし…

後期倭寇に参加した根来行人たち~その② 双嶼壊滅と後期倭寇の始まり

双嶼の繁栄は長く続かなかった。先の記事で「略奪などはそんなには行っていなかった」と書いたが、それも1546年までのことだった。この年から翌47年にかけて、密貿易商の親分格であった、許棟兄弟が突如70余隻の船団を率いて、浙江省の沿岸地帯を襲…

著作について~その③ 1巻の表紙を変える・色入りの絵が上がってきました & 紐と袋を勘違い

色入りの絵が上がってきました! 徐々に、命が吹き込まれていく感がありますね。 帯の柄が素晴らしいです!特に考えもなく指定していなかったのですが、珍飯さんがデザインしたものを入れていただきました。お祭り用に誂えた感がしてピッタリです。この絵を…

後期倭寇に参加した根来行人たち~その① 密貿易ネットワーク

16世紀の中国沿岸。福建省・広東省・浙江省などでは、海運を使用した密貿易が盛んに行われていた。福建省に至っては、人口の9割が何らかの形で密貿易に関わっていた、とある。明代の中国には「郷紳」という、中央から派遣されてくる現役官僚と連携して、…

前期倭寇について~その③ 李氏朝鮮が払った代償と、三浦の乱

1443年に嘉吉条約が結ばれたことによって、前期倭寇は終息した。だが、この条約は李氏朝鮮にとっては高くつくものであった。例えば、対馬が貿易のために訪朝した際には、その滞在費、そして交易品の運搬費用は、全て朝鮮側の負担になった。交易品を運ぶ…

著作について~その② 1巻の表紙を変える・下書きがあがる

1巻のラフから、下書きが上がりました。とても難しい構図だと思うのですが、見事なものです。自分には絵心が全くないので、こんなに上手に絵を描ける人を、純粋に尊敬してしまいます。 次郎の斜め下に少年が座っていて、そこから見上げている視点になります…

前期倭寇について~その② 前期倭寇の終息

前期倭寇のピークは、1376年から1389年にかけての13年間である。朝鮮半島における記録を見てみると、それまでは年にひとケタ、多くて年に10回ほどであったのが、1376年に12回を数えた後、翌77年からは29回、22回、15回、17回と…

前期倭寇について~その① 前期倭寇の正体

倭寇と根来の行人。一見関係なさそうだが、意外にも少しあるのだ。このシリーズでは倭寇と根来行人とのかかわり、そして当時の国際的なネットワークについて見てみようと思う。 まず倭寇には「前期倭寇」と「後期倭寇」がある。なぜ2期に分かれているのかと…

著作について~その① 1巻の表紙を変える・ラフをお願いする

1巻「京の印地打ち」の表紙絵を変えようとしています。以前にお願いしていた絵師さんは、もう描かなくなったとのことで、1巻の表紙絵を2巻に描いていただいた「珍飯」さんに、お願いし直しているところです。 利用したのは、SUKIMAという仲介サービ…

白河印地党について~その③ 白河印地党と禁裏の砂

上杉本「洛中洛外図」において、御所はどのように描かれているのか?どうやらここでは正月の風景を描いているらしく、前庭において元日節会の行事である舞楽が行われている様子を見ることができる。そしてこの庭には、真っ白な砂が敷き詰められているのが分…

白河印地党について~その② 白河印地党の正体

何故に白河に、印地の党ができたのだろうか?実はよく分かっていない。以下は個人的な見解になるのだが、白河には平安期、法勝寺を代表とする六勝寺が建てられていた。200年余りで廃れてしまい、今は跡形も残っていないが、白河期に建てられたこれらの寺…

白河印地党について~その① 印地のエリート白河印地

拙著「京の印地打ち」で登場する白河印地衆。作中では、強烈な個性を持つ悪党の集団として描いている。この白河印地、軍記物である「義経記」に出てくる集団だ。「義経記」は平安末期が舞台である。この物語の中で、義経を助ける偉大な印地打ちとして「鬼一…

印地について~その⑥ 日本近世~近代編

天下統一が成り、戦乱の世も終わった。独立色の強かった様々な集団は、あらかた潰されるか、権益を取り上げられ幕藩体制という新しい仕組みの中に再編されていった。平和と秩序の時代の到来である。 発生するたびに死者が出る向かい礫など、お上にとっては百…

印地について~その⑤ 日本中世編(下)

さて節句の向かい礫である。京には大小の祭りはたくさんあるが、時代が下るにつれ「祭礼飛礫」は正月と節句、この2つの祭りに集約していったようだ。 拙著「京の印地打ち」では節句の向かい礫は、加茂川を挟んで行われていたように書いたが、実際にはみやこ…

印地について~その④ 日本中世編(上)

鎌倉期に入り、武士たちの時代が始まる。しかし西日本はまだ、概ね朝廷の支配下にあった。東の武士政権、西の王朝政権である。(「2つの王権」論に基づく。これに対する考え方に、「権門体制」論がある) 朝廷のお膝元、京においては、寺社勢力による「強訴…

根来寺の行人たち~その⑧ 出入りの掟

頻繁に起きていた境内での出入りだが、争いがエスカレートしないよう、守るべきルールがあったことが判明している。これを「根来寺之法度(はっと)」という。これまでに紹介した、慶誓が参加した2つの出入りを読んで気づいたことはないだろうか?そう、武器…

根来寺の行人たち~その⑦ どこの谷にあるのか、系列はどこなのか

根来の四院――泉識坊・岩室坊・閼伽井坊・杉乃坊のこれら有力子院は、大きな経済力と軍事力を持っていた。こうした力のある子院は、まるで企業が子会社を作るように、系列の子院を増やしていく。例えば泉識坊系列の子院として、愛染院や福宝院などの名が挙げ…

根来寺の行人たち~その⑥ 1556年、跡式の出入り

もう1つ、違う出入りを紹介したい。やはり同じ慶誓が参加した「跡式の出入り」だ。先の「山分けの出入り」からわずか1年後、1556年に発生した出入りである。 それにしても、慶誓が参加していない出入りもあったはずなので、こうした戦いが常時、境内に…

根来寺の行人たち~その⑤ 1555年、山分けの出入り

以前の記事で少し述べたが、根来の行人方子院の間では、内輪もめが絶えなかった。内輪もめといっても、喧嘩レベルの話ではない。死傷者が何人も出る合戦レベルの戦いを、境内において繰り広げていたことが分かっている。 これを「出入り」という。 佐武源左…

根来寺の行人たち~その④ 行人たちの実態

行人たち――僧兵でもあった彼らは、どんな生活をしていたのだろうか。まずは見た目から。これに関してはフロイスの記録が詳しい。該当部分を引用してみよう。 「彼らは絹の着物を着用して、世俗の兵士のように振る舞い、富裕であり立派な金飾りの両刀を差して…

根来寺の行人たち~その③ 台頭する行人たち

ともあれ、地域の土豪らを吸収して強大化した根来寺。根来に属した行人方子院たちは、外部に対しても盛んに侵略を行うようになる。 経済的な侵略方法としては、加地子(かじし)得分(とくぶん)(年貢以外の余剰収穫分のこと。場所によっては年貢の数倍~数十倍…

根来寺の行人たち~その② 土豪と行人方子院

多くの戦国大名の成立過程というものは、概ね以下のようなものだ。 ①守護や守護代、国衆の中から、力がある家が台頭してくる。 ②周辺の国衆を滅ぼすか、傘下に入れるかなどして、その国を統一する。 ③独立性の強い国内勢力を粛清、再編成しつつ他国へ侵攻す…

根来寺の行人たち~その① 行人とは

紀州根来寺は、現在の和歌山県岩出石市に今もある、新義真言宗の総本山である。開祖は覚鑁上人。「根来寺」という名の寺は中世からあったが(古くからその地にあった豊福寺が、根来寺と呼ばれるようになっていた)、当時の人々の概念としては、そこに集まっ…

印地について~その③ 日本古代編

まずは印地の語源について。「石打ち」から転化して「いんぢ」となり、それに後から漢字をあてたものらしい。「印地」のほか「印字」「因地」「伊牟地」とも記される。 既に弥生時代前期の遺跡から礫が出土している。石製ないし土製のものだ。古来よりずっと…