根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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根来寺の行人たち~その④ 行人たちの実態

 行人たち――僧兵でもあった彼らは、どんな生活をしていたのだろうか。まずは見た目から。これに関してはフロイスの記録が詳しい。該当部分を引用してみよう。

 「彼らは絹の着物を着用して、世俗の兵士のように振る舞い、富裕であり立派な金飾りの両刀を差して歩行した。(中略)さらに彼らはナザレ人のように頭髪を長く背中の半ばまで絡めて垂れ下げ~(中略)一瞥しただけでその不遜な面構えといい、得体の知れぬ人柄といい、彼らが仕えている主――すなわち悪魔がいかなる者であるか――を示していた」とある。

 この後、彼らがいかに堕落しているか、キリスト教的主観に基づいた悪口が続くので省略するが、行人たちの出で立ちについては、客観性がある記述と思われる。つまり彼らは武蔵坊弁慶のような坊主頭でも、武士のように丁髷を結っていたわけでもなく、総髪を後ろで垂れ下げて、結わえていたということになる。

 またポルトガル宣教師、ビレラが本国に送った報告書にはこうある――「根来の僧は傲岸不遜かつ神を恐れず、腰に黄金の飾りを付け、高価な剣を帯び、人を斬ること大根を切るが如しである。また鍍金した僧院に住み、衣食・肉など、欲するがままである」

 武装についてはどうか。根来寺には「兵法虎の巻」という書物が伝わっている。僧兵の武装について解説した絵入りの軍学書で、その奥書には「平安期の兵家により伝授したもの」とある。しかし軍装は明らかに室町期のものなので、武装した行人を描いたものと思われる。

 

根来寺蔵「兵法虎の巻」より。
いわゆる一般の僧兵のイメージとは異なる。

 

 出で立ちを見る限り、堂々とした押し出しで、戦国武将にも見えなくもない。服装についても「絹の着物を着て、金飾りの両刀を差していた」などとあることから分かるように、かなり裕福な者がいたことを伺わせる。勿論、行人もピンキリなので、貧乏な行人も大勢いただろうが。

 戦国後期、玄紹という学侶僧がいた。彼が若い頃のエピソードを書き残している。それによると、とある山中で温泉に入っていると、泉識坊の行人らが湯に入ってきた。先に入っていた者たちは、畏れてこれを避け、みな上がってしまったが、玄紹はそのまま入っていた。すると泉識防の親方と思われる男から「お前は何者だ」と聞かれたので、答えるままに会話していると、玄紹が貧しい出身であったことを知った相手から「貧乏でもくじけるな。やめんじゃねえぞ」と励まされた――とある。

 本来、下級僧である行人僧に、学侶僧である玄紹が励まされるという、逆転現象が起きている。また一緒に温泉に入っていた者たちが、これを畏れて上がってしまうのも印象的だ。四院の親方ともなると、地方の大名にも匹敵するほどの富と威厳があったのだ。

 行人たちは妻帯していたのであろうか?真言僧は女犯しないのが建前であったが、どれほど守られていたかは疑問である(一部の真面目な僧は除く)。行人僧に至っては戒律なぞ、なきに等しいものだったろう。実際、とある行人の位牌には、本人の法名の横に、その妻と思われる法名が記されているものが残っている。流石に境内に家族を住まわせる者はいなかったろうが、子院の地元ないしは根来の門前町である西坂本などに、別宅を持って家族を住まわせていただろうと思われる。

 当然、肉も食っていただろうし、酒も飲んでいたことだろう。西坂本では羽目を外しただろうし、地元に戻ったらやりたい放題、俗人とそう変わりない生活スタイルだったのではないだろうか。(続く)