根来戦記の世界

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根来寺の行人たち~その⑤ 1555年、山分けの出入り

 以前の記事で少し述べたが、根来の行人方子院の間では、内輪もめが絶えなかった。内輪もめといっても、喧嘩レベルの話ではない。死傷者が何人も出る合戦レベルの戦いを、境内において繰り広げていたことが分かっている。

 これを「出入り」という。

 佐武源左衛門という、知る人ぞ知る武士がいる。彼は雑賀出身で12歳にして弓矢を持って村同士の合戦に参加するほどの、相当な暴れん坊だ。その後、雑賀の隣にある根来寺・福宝院の行人となっている。なぜ根来入りしたのかよく分からないが、武者修行のつもりだったのではないだろうか。彼はこの地において水を得た魚のごとく、縦横無尽に暴れまくるのである。ちなみに拙著にも、主人公と絡む重要人物として登場させている。

 晩年になって彼が記した「佐武伊賀守働書」には、1555年に境内で発生した「山分けの出入り」のことが詳しく載っている。事の発端はよく分からないが、「山分けの出入り」という名称からして、どうやら谷ごとの水利や伐採権から生じた争いらしい。

 共に有力な子院が集まる、蓮華谷と菩提谷間の争いであった。佐武伊賀の――行人時代は慶誓と名乗っていたと思われるので、以降は慶誓とする――慶誓の属していた福宝院は蓮華谷にあったので、その一員として出入りに参加したわけだ。この一連の出入りの経過を、彼の残した記録に基づいて紹介してみよう。

 まず蓮華谷側の軍勢が、菩提谷に向かって押し出していく。菩提谷側は、千手堂の前にある「筋交(すじかい)橋」の橋の板を外して待ち構えていた。恐れ知らずの、ひげ良泉という行人が橋げたを渡って相手側に突っ込んでいく。慶誓ら他の行人たちもそれを追い、突撃していった。たまらず相手側は崩れて、「七番空き地」まで後退したが、そこで陣を立て直して乱戦となる。

 槍を突き合う展開となるが、その最中に慶誓は矢で足を射られてしまう。矢柄は抜けたが、鏃はそのまま残ってしまった。手当てする間もなく戦っていると、慶誓はよりによって在来(おく)左京という勇者と出会ってしまう。槍を合わせたところ、相手の鎧袖に槍が絡んだので、力任せにそのまま突き倒そうとしたが、相手も流石の豪の者、うまくいかなかった。その後、弁財天の長坂院という、これまた豪の者と相対して、中巻(大太刀の刀身の根元に革を巻いたもの。そこを持ち手にして両手で使う。野太刀と薙刀の中間的武器)のきつい一撃を頭に食らってしまう。12枚造りの筋兜の輪甲の、うち4枚が割れるほどの衝撃だった。

 長坂院は倒れた慶誓を打ち捨てて、続いて大福院の大弐という行人に斬りかかり、7、8カ所もめった斬りにしてしまう。一撃食らってふらついた慶誓は、一旦退却することにした。渡ってきた橋は味方で混みあっていたので、下流にある別の橋を渡って退いた――

 

戦いの経緯。戦国期の根来寺境内の様子を記した「根来伽藍古地図」を基に著者が作成。
筋交橋は現在、県道が通る橋になっている。

 と、まあこんな感じなのだが、ご覧の通り本格的な戦いである。弓矢まで待ちだしているのだ。7、8カ所も斬られたという大福院の大弐は、その後も活動が確認できるので幸い死ななかったようだが、よくぞ助かったものだ。

 出入りの結果だが、慶誓はどちらが勝ったか記していないので、どうなったかは分からない。この山分けの出入り、拙著で主人公にも参加させている。今紹介した史実とどう変わっているのか、是非読み比べていただきたい。(続く)