根来戦記の世界

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印地について~その④ 日本中世編(上)

 鎌倉期に入り、武士たちの時代が始まる。しかし西日本はまだ、概ね朝廷の支配下にあった。東の武士政権、西の王朝政権である。(「2つの王権」論に基づく。これに対する考え方に、「権門体制」論がある)

 朝廷のお膝元、京においては、寺社勢力による「強訴」は引き続き行われていた。そんな中「遊手浮食の輩」が神輿御行に供して飛礫を行った、という記録が見られるようになる。彼らは神人ではない。何をして食っているのかよく分からない、いわゆるゴロツキどもである。

 網野善彦氏によると、13世紀の京において職能民としての印地打ちが見られるようになる、という。これが、いわゆる「印地の党」である。昔ながらの神人たちによる印地打ちは減り、代わりに「印地の党」などを中心とした、民衆による習俗的な印地打ちの色が強まってくるのである。

 

投石紐を振り回す、印地打ち。「年中行事絵巻」より

 またこの時期からの印地の記録で特徴的なのが「祭礼飛礫」である。平安の頃から既に、祭りの際の飛礫はあったのだが、その数が多くなってくるのだ。鎌倉時代には「祭りの飛礫を、停止せしむべし」といった内容の記述があるし、また寺社上層部としても「禁止をきつく申し付ける」など申渡しをして、やめさせようとした形跡がある。しかし印地が既に神人たちの手から離れており、庶民的なものに移行していたとするならば、寺社がいくら言っても聞かなかったのではなかろうか。

 ちなみに鎌倉幕府が倒れ、南北朝の動乱が始まると、強訴の数は減っていく。ある意味、平和的な?ストの一種であった強訴だが、戦乱の世となるとそんなことをしている場合ではなかったのだろう。また人々の認識として、昔より神仏の権威が弱まってきたことも影響している。古代的な要素の1つであった、「祟り」に対する恐怖心が薄まってきているのだ。得体の知れないそんなものよりも、今そこにある現実的な暴力の方が遥かに恐ろしいというわけだ。(ただし室町幕府が成立し、足利義満治世の晩年になった頃より、強訴の数は復活する。1414年から1466年までの半世紀に起こった強訴の数は28回を数えており、幕府も大抵の要求は受け入れたようだ。これは祇園・北野の両社を傘下に置く叡山が、各種の祭礼を停止すると脅したことによる。つまり、祭りのボイコットである。これを求める民衆の声を、幕府も無視することは出来なかったのだ。)

 そんな新しい時代を象徴するのが、悪党どもの存在である。中沢厚氏著「つぶて」によると、この時代の様々な文書――「峯相記」「久下文書」「薩藩旧記」そして「太平記」に至るまで、悪党たちが戦術として礫を多用している様子が見られるという。「印地の党」たちも、悪党どもの一員として礫を打っていたかもしれない。

 応仁・文明の乱直後、みやこの治安は極端に悪化した。当時の記録である「後慈眼院殿御記」には「放火や強盗、或いは飛礫など数知れず」とある。人心が乱れ、庶民が礫を以って、鬱屈を晴らしている姿が見られる。(続く)